『たばこ屋の娘』
─元祖"劇画"の到達点─
●空ドラ
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
○'70年代の松本正彦作品
日本マンガの黎明期に松本正彦が提唱した"駒画"は、マンガ作品において、物語中で流れる時間を、コマの連続を使って表現した作品形態であり、マンガえお進化発展させようとした松本の試みであった。のちに駒画は、松本と同様に、新たなマンガ像を追求する辰巳ヨシヒロの"劇画"と接近・融合し、'50年代~'60年代の貸本マンガ界を発展させる原動力となった。貸本時代の松本は、推理ものを中心に劇画分野で作家活動を行ってきたが、劇画は躍進、進化するものだという松本の理念(*1)と、貸本から雑誌へと発表媒体が変化していったことによる、マンガ読者の多様化への対応からか、松本は週刊マンガ誌が登場してきた'60年代半ばより、児童向けや青年向けの作品を発表するようになった。後に'90年代の再評価によって脚光を浴びることになった松本作の児童向けギャグ『パンダラブー』は、その頃発表された松本の作品のひとつであるが、同時期に松本は、一般市民の生活空間中に埋もれた、若い男女の日常生活を描いた短編作品を青年誌上で発表している。これら'70年代前半に製作された、松本のマンガ作品(*2)は、赤塚不二夫のギャグマンガに登場するキャラクターを参考にしたとされるデザインのキャラクターが登場するものの、赤塚キャラのような半ば規格化されたデザインとは違って、形状や線描に統一感を持っていない。だが、それら赤塚デザインを独自解釈したようなキャラクター描写により、やや地味で暗いムードが作品世界に漂っていながらも、その中でキャラクターたちが見せる各々の心理が感情豊かに表されている。そして彼らが過ごす日常生活の中に起こった小さな事件を描くことによって、人間の生活感覚というものを読者に容易に浸透させることを実現している。
『パンダラブー』紹介により、松本作品再評価の先駆となった大西昇平及び劇画史研究会(斧田小主催)は、マンガ史の中で他種多様な作品を著した作家である松本の、『パンダラ』とは違った一面を紹介するため『パンダラ』と同時期に発表された青年向けの短編を集め、短編集『たばこ屋の娘』として刊行することを計画した。(*3)『たばこ屋』は、表題作を始め、'70年代に青年誌上で発表された作品を五編収録した作品集であり、幼年向けとして企画された『パンダラ』だけでは味わうことのできない、松本正彦の作家としての多様な表現力が味わえる。なお、この短編集は刊行直前の2005年2月に松本が病没したため、当書には追悼企画的な性格も加わることとなった。
○"あの頃"の空気
『たばこ屋』の収録作品には、木造のアパートがまだ集合住宅の主流であった'70年代初めの時代を物語の舞台として、汚れた味気ない部屋で過ごしている、目立った特徴もなく、存在の薄い青年と彼らが関ることとなる女性が主役になっている。物語の展開には大きな変化が見られず、何ともいえないような"ユルい"日常が描かれている。このような叙情性を持った話は際立った"見せ場"を持たないため、見た目の派手さを求めるマンガ雑誌の作品掲載傾向の下ではどうしても地味な印象しか受けないが、作者の叙情志向を作品の描写から求めようとする読者にとって、関心を引き付けやすい内容である。松本は『パンダラブー』のキャラクターデザインを踏襲した、抽象の度合いが強いデザインの人物と、版画を思わせる、線描を多用した背景を描写し、またコマ中の擬音を過剰な大きさにせず、素朴なイメージで表すことによって、突き放したような空気の閑素さを物語空間内に再現している。これにより、物語の舞台となる、都会の片隅や海辺の町から流れている空気の温度や匂い、音が視覚イメージに変換され、これらの作品は1970年代当時の、日本の様子を空気ごと読者に伝えることとなった。それは写真や映画フィルムなどの視覚媒体や、解説書や体験記などの記述媒体、録音テープやレコードなどの映像・録音媒体とはまた違った「マンガ」形式の表現形態による、1970年代の"あの頃"の様子を読者各自のイメージ中で可能な限り"復元"させる手掛かりとなるであろう。
『たばこ屋の娘』収録の諸作品には長髪、ジーパン姿の若者達と寂れた街角が多く描かれており、'70年代のテレビドラマの場面を連想させる。松本の描くマンガとしての、それらの描写には、衝撃的な事件の起こらない、何気ない"日常"を話の中心とした、そこに潜む人々の、静かながらも確かな"生"の活力が感じ取られる。松本正彦とその作品は、近年の『パンダラブー』再評価によって若年層にも知名度が上がったが、復刻された『パンダラブー』の印象が強すぎたたことに加えて、掲載雑誌や単行本の入手が困難であり、復刻版も出ていないため、松本作品を眼にする機会が非常に少なく、今日の松本作品に対する正当な評価はほとんどされていないと思われる。そのような状況を鑑み、松本正彦の作品を発掘・復刻すべく努力した大西祥平と斧田小の二人の活動は評価されるべきであろう。松本は2005年年2月に逝去したが、今後も松本の作品が多くの人々に読まれ、松本の目指したマンガ/劇画の理念が人々に永遠に受け継がれることを期待するものである。
○収録作品
●たばこ屋の娘
女性とは縁が薄く、女性との付き合いが下手な青年は、たばこ屋の店先で見かけた、たばこ屋の若い娘が気になり、娘を見るためだけに、吸いもしないたばこを買い続けていた。そのことを聞いた先輩は、欲求不満の解消には、まず娘の手を握ってみろとアドバイスする。アパートの階段から転落した青年の見舞いに彼の部屋を訪れた、隣室の女性・寺沢の手を青年は偶然握ることとなったが、彼は性的興奮の異様な感覚に襲われ、興奮の頂点に達してしまう。その後、青年は先輩に相談し、寺沢の部屋を尋ねるが、寺沢はすでに引っ越しており部屋には不在であった。切ない現実を味わった青年は、再びたばこ屋に通うが、あの時の事を思い出しながらたばこの箱を握るのであった…。1937年(昭和12年)の流行歌で、平井英子と岸井明が唄った「たばこ屋の娘」を連想させるストーリーであるが、歌詞とは違って本編では、出会った二人は両思いになることはなく、現実のやるせなさを漂わせながら物語の幕を閉じる。部屋の中での、青年の足の動きを残像の連続で見せたり、青年の性的興奮の絶頂を、倒れた瓶からこぼれるミルクの絵で示したりするビジュアルイメージ重視の表現が、若さや未熟さからくる、青年の不安定な心理が作品中に巧みに組み込まれており、青年が感じる不安と興奮、その後の罪悪感の混じった切ない心境の表現に効果を持たせている。
●鶴巻鳴子の恋人
「鶴巻鳴子」は失業中の恋人・「左」さん(哲ちゃん)を励まし、彼の求職に協力する。「左」の側にはどこからか犬がついてきて、彼の部屋に住み着くようになった。便器代わりに「左」の部屋に老いてあったドンブリを洗ってからは、犬はドンブリを捜そうと円周を描くように走り回るようになった。「鳴子」は犬の挙動に左の姿を重ね合わせていた。不可解な挙動を見かねた「左」の大家は、犬を自分の部屋で引き取るが、犬は相変わらず円周を描きながら走っていた…。さえない「左」の不安定な心理が、彼についてきた犬の動作で表現され、物語後半での雨の場面とあいまって湿った冷気を感じさせるような、寂しさのある空気を創りだしている。
●コーヒーの味
「チーちゃん」は実家から見合いの話が出ているが、青年「つんちゃん」に思いを寄せている。「つんちゃん」の家を訪ねた「チーちゃん」は「つんちゃん」の弟二人になつかれる。「つんちゃん」の家には彼の兄弟三人と彼らの父親(?)が暮らしていた。幼い弟達のいる、"父子家庭"での母親役になろうと、「チーちゃん」は「つんちゃん」との結婚を決めようとしていた。
家族を主題にした作品であり、「チーちゃん」の「つんちゃん」に対する思いが、彼女が入れるコーヒーと砂糖を使って暗喩的に表現されている。また、物語の主要な舞台となる、「チーちゃん」のアパートとそこで出るケーキや隣室のおばさん、「つんちゃん」の家とそこで出る焼き芋や彼の弟達といった対比された描写も作品にアクセントを付け、二人の思いとその動きを効果的に演出している。
●赤いキッス
青年「朝沼」は洗っていないサルマタを押入にためこんでいたため、恥ずかしさを感じて人前で押入を開けられなかった。「朝沼」の隣室には「昭子」とその娘「マミ」が住んでいた。「昭子」は夫に捨てられたと、「浅沼」は思っている。「朝沼」はいつしか「マミ」になつかれ、それが縁で「昭子」と知り合う。親しさを増していった「朝沼」達三人は、動物園に出掛け、家族気分で楽しいひと時を過ごす。動物園から帰った日の晩、「昭子」は「朝沼」の部屋を尋ねるが、「朝沼」は例の押入を開けようとした「昭子」を引き止めようとした。その弾みで「朝沼」は「昭子」抱き寄せ、口付けする。その後、「昭子」の夫が帰ってきて、彼女の家庭生活が再び始まった。「朝沼」の淡く切ない時間は、アパートを通り掛かったチンドン屋の笛や太鼓の音に乗るかのように終わりを告げた。切なさを胸に秘め、「昭子」達との夢のような日々を思い出しながら、「朝沼」は今まで押入にたまっていたサルマタを洗うのであった。本作のタイトル「赤いキッス」は1973当時の流行歌であったカゴメケチャップCMソング・「赤いキッス」から取られている。「赤いキッス」のモチーフが作品を構成するイメージとして用いられ、作中でも「朝沼」や彼の友人「串木」が作中で唄っていて、作品にメロディ感と軽快さをも持たせている(*4)。
●どこかへ
金谷と別れた「ケーコ」は、店の主人とケンカして店を飛び出した。「ケーコ」は、パン屋の二階にあるアパートに住む「杉山」のもとに身を寄せる。しかし、「杉山」のアパートは水洗便所設置のため家賃が値上がりしたため、「杉山」と「ケーコ」は新しい部屋探しを始める。そんな中、ふと線路を走りゆく電車を目にした「ケーコ」は「杉山」を誘って、目的地を決めずに、運賃が許す限り遠くの駅まで電車に乗って行く。駅を出た二人は、海辺の町を歩く。途中で出会った老漁師の家で世話になった後、「ケーコ」と「杉山」は、夕日が傾く町を再びあてもなく歩く。前半での都会から後半の海辺町へと対照的に転換していく場面展開は、沈滞から微かながらも前進へと向かおうとする、主役二人の心境の変化を作品に暗示している。同時に、老漁師にライターでたばこの火を貸そうとするす「杉山」に対して、ガスがないと火が付かないような不便なものなんかいらないと自分のマッチで火を付ける老漁師の姿と、それに続いて、終盤でガス切れのライターに代わって「ケーコ」がマッチの火を貸す展開が読者に強い印象を受ける。本短篇集の最後にたばこ絡みの話を置いた編集者の編集感覚も興味深い。
(文中敬称略)
註
*1:松本正彦「松本正彦インタビュー」2005年1月24日、編集部(松本正彦長
男・松本知彦協力)
『たばこ屋の娘』復刻版所収 2005年2月、劇画史研究会 ひよこ書房
*2:前掲書 松本によると、松本は実在しないような、コミカルな造形で描か
れ、大げさにシンボライズされたキャラクターが登場する、非現実的なス
トーリーで構成された作品を「マンガ」と考えていたようである。
*3:前掲書掲載の、編集部解説による。
*4:阿久 悠作詞、小林亜星作曲 はしだのりひこ&エンドレス歌唱。物語始め
で浅沼を訪ねてきた串木が唄い、中盤の浅沼と昭子との口付けの場面に連
なる複線となっている。
また、物語最後でサルマタを干す「浅沼」が唄う中、窓から干してあった
赤いサルマタが串木の顔に当たる場面の複線ともなっており。軽い笑いを
誘う。
作品: 70年代短編傑作集『たばこ屋の娘』復刻版 私家版単行本全1巻
限定500部 劇画史研究会/ひよこ書房発行
2005年2月26日に中野の書店「タコシェ」の店頭&HP通販、ヒバリヤ書店・本店
(東大阪市)でも文芸書コーナーで販売されていた。
─元祖"劇画"の到達点─
●空ドラ
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○'70年代の松本正彦作品
日本マンガの黎明期に松本正彦が提唱した"駒画"は、マンガ作品において、物語中で流れる時間を、コマの連続を使って表現した作品形態であり、マンガえお進化発展させようとした松本の試みであった。のちに駒画は、松本と同様に、新たなマンガ像を追求する辰巳ヨシヒロの"劇画"と接近・融合し、'50年代~'60年代の貸本マンガ界を発展させる原動力となった。貸本時代の松本は、推理ものを中心に劇画分野で作家活動を行ってきたが、劇画は躍進、進化するものだという松本の理念(*1)と、貸本から雑誌へと発表媒体が変化していったことによる、マンガ読者の多様化への対応からか、松本は週刊マンガ誌が登場してきた'60年代半ばより、児童向けや青年向けの作品を発表するようになった。後に'90年代の再評価によって脚光を浴びることになった松本作の児童向けギャグ『パンダラブー』は、その頃発表された松本の作品のひとつであるが、同時期に松本は、一般市民の生活空間中に埋もれた、若い男女の日常生活を描いた短編作品を青年誌上で発表している。これら'70年代前半に製作された、松本のマンガ作品(*2)は、赤塚不二夫のギャグマンガに登場するキャラクターを参考にしたとされるデザインのキャラクターが登場するものの、赤塚キャラのような半ば規格化されたデザインとは違って、形状や線描に統一感を持っていない。だが、それら赤塚デザインを独自解釈したようなキャラクター描写により、やや地味で暗いムードが作品世界に漂っていながらも、その中でキャラクターたちが見せる各々の心理が感情豊かに表されている。そして彼らが過ごす日常生活の中に起こった小さな事件を描くことによって、人間の生活感覚というものを読者に容易に浸透させることを実現している。
『パンダラブー』紹介により、松本作品再評価の先駆となった大西昇平及び劇画史研究会(斧田小主催)は、マンガ史の中で他種多様な作品を著した作家である松本の、『パンダラ』とは違った一面を紹介するため『パンダラ』と同時期に発表された青年向けの短編を集め、短編集『たばこ屋の娘』として刊行することを計画した。(*3)『たばこ屋』は、表題作を始め、'70年代に青年誌上で発表された作品を五編収録した作品集であり、幼年向けとして企画された『パンダラ』だけでは味わうことのできない、松本正彦の作家としての多様な表現力が味わえる。なお、この短編集は刊行直前の2005年2月に松本が病没したため、当書には追悼企画的な性格も加わることとなった。
○"あの頃"の空気
『たばこ屋』の収録作品には、木造のアパートがまだ集合住宅の主流であった'70年代初めの時代を物語の舞台として、汚れた味気ない部屋で過ごしている、目立った特徴もなく、存在の薄い青年と彼らが関ることとなる女性が主役になっている。物語の展開には大きな変化が見られず、何ともいえないような"ユルい"日常が描かれている。このような叙情性を持った話は際立った"見せ場"を持たないため、見た目の派手さを求めるマンガ雑誌の作品掲載傾向の下ではどうしても地味な印象しか受けないが、作者の叙情志向を作品の描写から求めようとする読者にとって、関心を引き付けやすい内容である。松本は『パンダラブー』のキャラクターデザインを踏襲した、抽象の度合いが強いデザインの人物と、版画を思わせる、線描を多用した背景を描写し、またコマ中の擬音を過剰な大きさにせず、素朴なイメージで表すことによって、突き放したような空気の閑素さを物語空間内に再現している。これにより、物語の舞台となる、都会の片隅や海辺の町から流れている空気の温度や匂い、音が視覚イメージに変換され、これらの作品は1970年代当時の、日本の様子を空気ごと読者に伝えることとなった。それは写真や映画フィルムなどの視覚媒体や、解説書や体験記などの記述媒体、録音テープやレコードなどの映像・録音媒体とはまた違った「マンガ」形式の表現形態による、1970年代の"あの頃"の様子を読者各自のイメージ中で可能な限り"復元"させる手掛かりとなるであろう。
『たばこ屋の娘』収録の諸作品には長髪、ジーパン姿の若者達と寂れた街角が多く描かれており、'70年代のテレビドラマの場面を連想させる。松本の描くマンガとしての、それらの描写には、衝撃的な事件の起こらない、何気ない"日常"を話の中心とした、そこに潜む人々の、静かながらも確かな"生"の活力が感じ取られる。松本正彦とその作品は、近年の『パンダラブー』再評価によって若年層にも知名度が上がったが、復刻された『パンダラブー』の印象が強すぎたたことに加えて、掲載雑誌や単行本の入手が困難であり、復刻版も出ていないため、松本作品を眼にする機会が非常に少なく、今日の松本作品に対する正当な評価はほとんどされていないと思われる。そのような状況を鑑み、松本正彦の作品を発掘・復刻すべく努力した大西祥平と斧田小の二人の活動は評価されるべきであろう。松本は2005年年2月に逝去したが、今後も松本の作品が多くの人々に読まれ、松本の目指したマンガ/劇画の理念が人々に永遠に受け継がれることを期待するものである。
○収録作品
●たばこ屋の娘
女性とは縁が薄く、女性との付き合いが下手な青年は、たばこ屋の店先で見かけた、たばこ屋の若い娘が気になり、娘を見るためだけに、吸いもしないたばこを買い続けていた。そのことを聞いた先輩は、欲求不満の解消には、まず娘の手を握ってみろとアドバイスする。アパートの階段から転落した青年の見舞いに彼の部屋を訪れた、隣室の女性・寺沢の手を青年は偶然握ることとなったが、彼は性的興奮の異様な感覚に襲われ、興奮の頂点に達してしまう。その後、青年は先輩に相談し、寺沢の部屋を尋ねるが、寺沢はすでに引っ越しており部屋には不在であった。切ない現実を味わった青年は、再びたばこ屋に通うが、あの時の事を思い出しながらたばこの箱を握るのであった…。1937年(昭和12年)の流行歌で、平井英子と岸井明が唄った「たばこ屋の娘」を連想させるストーリーであるが、歌詞とは違って本編では、出会った二人は両思いになることはなく、現実のやるせなさを漂わせながら物語の幕を閉じる。部屋の中での、青年の足の動きを残像の連続で見せたり、青年の性的興奮の絶頂を、倒れた瓶からこぼれるミルクの絵で示したりするビジュアルイメージ重視の表現が、若さや未熟さからくる、青年の不安定な心理が作品中に巧みに組み込まれており、青年が感じる不安と興奮、その後の罪悪感の混じった切ない心境の表現に効果を持たせている。
●鶴巻鳴子の恋人
「鶴巻鳴子」は失業中の恋人・「左」さん(哲ちゃん)を励まし、彼の求職に協力する。「左」の側にはどこからか犬がついてきて、彼の部屋に住み着くようになった。便器代わりに「左」の部屋に老いてあったドンブリを洗ってからは、犬はドンブリを捜そうと円周を描くように走り回るようになった。「鳴子」は犬の挙動に左の姿を重ね合わせていた。不可解な挙動を見かねた「左」の大家は、犬を自分の部屋で引き取るが、犬は相変わらず円周を描きながら走っていた…。さえない「左」の不安定な心理が、彼についてきた犬の動作で表現され、物語後半での雨の場面とあいまって湿った冷気を感じさせるような、寂しさのある空気を創りだしている。
●コーヒーの味
「チーちゃん」は実家から見合いの話が出ているが、青年「つんちゃん」に思いを寄せている。「つんちゃん」の家を訪ねた「チーちゃん」は「つんちゃん」の弟二人になつかれる。「つんちゃん」の家には彼の兄弟三人と彼らの父親(?)が暮らしていた。幼い弟達のいる、"父子家庭"での母親役になろうと、「チーちゃん」は「つんちゃん」との結婚を決めようとしていた。
家族を主題にした作品であり、「チーちゃん」の「つんちゃん」に対する思いが、彼女が入れるコーヒーと砂糖を使って暗喩的に表現されている。また、物語の主要な舞台となる、「チーちゃん」のアパートとそこで出るケーキや隣室のおばさん、「つんちゃん」の家とそこで出る焼き芋や彼の弟達といった対比された描写も作品にアクセントを付け、二人の思いとその動きを効果的に演出している。
●赤いキッス
青年「朝沼」は洗っていないサルマタを押入にためこんでいたため、恥ずかしさを感じて人前で押入を開けられなかった。「朝沼」の隣室には「昭子」とその娘「マミ」が住んでいた。「昭子」は夫に捨てられたと、「浅沼」は思っている。「朝沼」はいつしか「マミ」になつかれ、それが縁で「昭子」と知り合う。親しさを増していった「朝沼」達三人は、動物園に出掛け、家族気分で楽しいひと時を過ごす。動物園から帰った日の晩、「昭子」は「朝沼」の部屋を尋ねるが、「朝沼」は例の押入を開けようとした「昭子」を引き止めようとした。その弾みで「朝沼」は「昭子」抱き寄せ、口付けする。その後、「昭子」の夫が帰ってきて、彼女の家庭生活が再び始まった。「朝沼」の淡く切ない時間は、アパートを通り掛かったチンドン屋の笛や太鼓の音に乗るかのように終わりを告げた。切なさを胸に秘め、「昭子」達との夢のような日々を思い出しながら、「朝沼」は今まで押入にたまっていたサルマタを洗うのであった。本作のタイトル「赤いキッス」は1973当時の流行歌であったカゴメケチャップCMソング・「赤いキッス」から取られている。「赤いキッス」のモチーフが作品を構成するイメージとして用いられ、作中でも「朝沼」や彼の友人「串木」が作中で唄っていて、作品にメロディ感と軽快さをも持たせている(*4)。
●どこかへ
金谷と別れた「ケーコ」は、店の主人とケンカして店を飛び出した。「ケーコ」は、パン屋の二階にあるアパートに住む「杉山」のもとに身を寄せる。しかし、「杉山」のアパートは水洗便所設置のため家賃が値上がりしたため、「杉山」と「ケーコ」は新しい部屋探しを始める。そんな中、ふと線路を走りゆく電車を目にした「ケーコ」は「杉山」を誘って、目的地を決めずに、運賃が許す限り遠くの駅まで電車に乗って行く。駅を出た二人は、海辺の町を歩く。途中で出会った老漁師の家で世話になった後、「ケーコ」と「杉山」は、夕日が傾く町を再びあてもなく歩く。前半での都会から後半の海辺町へと対照的に転換していく場面展開は、沈滞から微かながらも前進へと向かおうとする、主役二人の心境の変化を作品に暗示している。同時に、老漁師にライターでたばこの火を貸そうとするす「杉山」に対して、ガスがないと火が付かないような不便なものなんかいらないと自分のマッチで火を付ける老漁師の姿と、それに続いて、終盤でガス切れのライターに代わって「ケーコ」がマッチの火を貸す展開が読者に強い印象を受ける。本短篇集の最後にたばこ絡みの話を置いた編集者の編集感覚も興味深い。
(文中敬称略)
註
*1:松本正彦「松本正彦インタビュー」2005年1月24日、編集部(松本正彦長
男・松本知彦協力)
『たばこ屋の娘』復刻版所収 2005年2月、劇画史研究会 ひよこ書房
*2:前掲書 松本によると、松本は実在しないような、コミカルな造形で描か
れ、大げさにシンボライズされたキャラクターが登場する、非現実的なス
トーリーで構成された作品を「マンガ」と考えていたようである。
*3:前掲書掲載の、編集部解説による。
*4:阿久 悠作詞、小林亜星作曲 はしだのりひこ&エンドレス歌唱。物語始め
で浅沼を訪ねてきた串木が唄い、中盤の浅沼と昭子との口付けの場面に連
なる複線となっている。
また、物語最後でサルマタを干す「浅沼」が唄う中、窓から干してあった
赤いサルマタが串木の顔に当たる場面の複線ともなっており。軽い笑いを
誘う。
作品: 70年代短編傑作集『たばこ屋の娘』復刻版 私家版単行本全1巻
限定500部 劇画史研究会/ひよこ書房発行
2005年2月26日に中野の書店「タコシェ」の店頭&HP通販、ヒバリヤ書店・本店
(東大阪市)でも文芸書コーナーで販売されていた。
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by konlon
| 2008-11-09 12:20
| マンガ