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パーソナル文化研究所・空琉館の情報誌的ウエブログです。


by konlon

『たばこ屋の娘』

『たばこ屋の娘』
 ─元祖"劇画"の到達点─
            ●空ドラ
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○'70年代の松本正彦作品
 日本マンガの黎明期に松本正彦が提唱した"駒画"は、マンガ作品において、物語中で流れる時間を、コマの連続を使って表現した作品形態であり、マンガえお進化発展させようとした松本の試みであった。のちに駒画は、松本と同様に、新たなマンガ像を追求する辰巳ヨシヒロの"劇画"と接近・融合し、'50年代~'60年代の貸本マンガ界を発展させる原動力となった。貸本時代の松本は、推理ものを中心に劇画分野で作家活動を行ってきたが、劇画は躍進、進化するものだという松本の理念(*1)と、貸本から雑誌へと発表媒体が変化していったことによる、マンガ読者の多様化への対応からか、松本は週刊マンガ誌が登場してきた'60年代半ばより、児童向けや青年向けの作品を発表するようになった。後に'90年代の再評価によって脚光を浴びることになった松本作の児童向けギャグ『パンダラブー』は、その頃発表された松本の作品のひとつであるが、同時期に松本は、一般市民の生活空間中に埋もれた、若い男女の日常生活を描いた短編作品を青年誌上で発表している。これら'70年代前半に製作された、松本のマンガ作品(*2)は、赤塚不二夫のギャグマンガに登場するキャラクターを参考にしたとされるデザインのキャラクターが登場するものの、赤塚キャラのような半ば規格化されたデザインとは違って、形状や線描に統一感を持っていない。だが、それら赤塚デザインを独自解釈したようなキャラクター描写により、やや地味で暗いムードが作品世界に漂っていながらも、その中でキャラクターたちが見せる各々の心理が感情豊かに表されている。そして彼らが過ごす日常生活の中に起こった小さな事件を描くことによって、人間の生活感覚というものを読者に容易に浸透させることを実現している。
 『パンダラブー』紹介により、松本作品再評価の先駆となった大西昇平及び劇画史研究会(斧田小主催)は、マンガ史の中で他種多様な作品を著した作家である松本の、『パンダラ』とは違った一面を紹介するため『パンダラ』と同時期に発表された青年向けの短編を集め、短編集『たばこ屋の娘』として刊行することを計画した。(*3)『たばこ屋』は、表題作を始め、'70年代に青年誌上で発表された作品を五編収録した作品集であり、幼年向けとして企画された『パンダラ』だけでは味わうことのできない、松本正彦の作家としての多様な表現力が味わえる。なお、この短編集は刊行直前の2005年2月に松本が病没したため、当書には追悼企画的な性格も加わることとなった。


○"あの頃"の空気

 『たばこ屋』の収録作品には、木造のアパートがまだ集合住宅の主流であった'70年代初めの時代を物語の舞台として、汚れた味気ない部屋で過ごしている、目立った特徴もなく、存在の薄い青年と彼らが関ることとなる女性が主役になっている。物語の展開には大きな変化が見られず、何ともいえないような"ユルい"日常が描かれている。このような叙情性を持った話は際立った"見せ場"を持たないため、見た目の派手さを求めるマンガ雑誌の作品掲載傾向の下ではどうしても地味な印象しか受けないが、作者の叙情志向を作品の描写から求めようとする読者にとって、関心を引き付けやすい内容である。松本は『パンダラブー』のキャラクターデザインを踏襲した、抽象の度合いが強いデザインの人物と、版画を思わせる、線描を多用した背景を描写し、またコマ中の擬音を過剰な大きさにせず、素朴なイメージで表すことによって、突き放したような空気の閑素さを物語空間内に再現している。これにより、物語の舞台となる、都会の片隅や海辺の町から流れている空気の温度や匂い、音が視覚イメージに変換され、これらの作品は1970年代当時の、日本の様子を空気ごと読者に伝えることとなった。それは写真や映画フィルムなどの視覚媒体や、解説書や体験記などの記述媒体、録音テープやレコードなどの映像・録音媒体とはまた違った「マンガ」形式の表現形態による、1970年代の"あの頃"の様子を読者各自のイメージ中で可能な限り"復元"させる手掛かりとなるであろう。
 『たばこ屋の娘』収録の諸作品には長髪、ジーパン姿の若者達と寂れた街角が多く描かれており、'70年代のテレビドラマの場面を連想させる。松本の描くマンガとしての、それらの描写には、衝撃的な事件の起こらない、何気ない"日常"を話の中心とした、そこに潜む人々の、静かながらも確かな"生"の活力が感じ取られる。松本正彦とその作品は、近年の『パンダラブー』再評価によって若年層にも知名度が上がったが、復刻された『パンダラブー』の印象が強すぎたたことに加えて、掲載雑誌や単行本の入手が困難であり、復刻版も出ていないため、松本作品を眼にする機会が非常に少なく、今日の松本作品に対する正当な評価はほとんどされていないと思われる。そのような状況を鑑み、松本正彦の作品を発掘・復刻すべく努力した大西祥平と斧田小の二人の活動は評価されるべきであろう。松本は2005年年2月に逝去したが、今後も松本の作品が多くの人々に読まれ、松本の目指したマンガ/劇画の理念が人々に永遠に受け継がれることを期待するものである。

○収録作品
                                
●たばこ屋の娘
 女性とは縁が薄く、女性との付き合いが下手な青年は、たばこ屋の店先で見かけた、たばこ屋の若い娘が気になり、娘を見るためだけに、吸いもしないたばこを買い続けていた。そのことを聞いた先輩は、欲求不満の解消には、まず娘の手を握ってみろとアドバイスする。アパートの階段から転落した青年の見舞いに彼の部屋を訪れた、隣室の女性・寺沢の手を青年は偶然握ることとなったが、彼は性的興奮の異様な感覚に襲われ、興奮の頂点に達してしまう。その後、青年は先輩に相談し、寺沢の部屋を尋ねるが、寺沢はすでに引っ越しており部屋には不在であった。切ない現実を味わった青年は、再びたばこ屋に通うが、あの時の事を思い出しながらたばこの箱を握るのであった…。1937年(昭和12年)の流行歌で、平井英子と岸井明が唄った「たばこ屋の娘」を連想させるストーリーであるが、歌詞とは違って本編では、出会った二人は両思いになることはなく、現実のやるせなさを漂わせながら物語の幕を閉じる。部屋の中での、青年の足の動きを残像の連続で見せたり、青年の性的興奮の絶頂を、倒れた瓶からこぼれるミルクの絵で示したりするビジュアルイメージ重視の表現が、若さや未熟さからくる、青年の不安定な心理が作品中に巧みに組み込まれており、青年が感じる不安と興奮、その後の罪悪感の混じった切ない心境の表現に効果を持たせている。

●鶴巻鳴子の恋人
 「鶴巻鳴子」は失業中の恋人・「左」さん(哲ちゃん)を励まし、彼の求職に協力する。「左」の側にはどこからか犬がついてきて、彼の部屋に住み着くようになった。便器代わりに「左」の部屋に老いてあったドンブリを洗ってからは、犬はドンブリを捜そうと円周を描くように走り回るようになった。「鳴子」は犬の挙動に左の姿を重ね合わせていた。不可解な挙動を見かねた「左」の大家は、犬を自分の部屋で引き取るが、犬は相変わらず円周を描きながら走っていた…。さえない「左」の不安定な心理が、彼についてきた犬の動作で表現され、物語後半での雨の場面とあいまって湿った冷気を感じさせるような、寂しさのある空気を創りだしている。

●コーヒーの味
 「チーちゃん」は実家から見合いの話が出ているが、青年「つんちゃん」に思いを寄せている。「つんちゃん」の家を訪ねた「チーちゃん」は「つんちゃん」の弟二人になつかれる。「つんちゃん」の家には彼の兄弟三人と彼らの父親(?)が暮らしていた。幼い弟達のいる、"父子家庭"での母親役になろうと、「チーちゃん」は「つんちゃん」との結婚を決めようとしていた。
 家族を主題にした作品であり、「チーちゃん」の「つんちゃん」に対する思いが、彼女が入れるコーヒーと砂糖を使って暗喩的に表現されている。また、物語の主要な舞台となる、「チーちゃん」のアパートとそこで出るケーキや隣室のおばさん、「つんちゃん」の家とそこで出る焼き芋や彼の弟達といった対比された描写も作品にアクセントを付け、二人の思いとその動きを効果的に演出している。

●赤いキッス
 青年「朝沼」は洗っていないサルマタを押入にためこんでいたため、恥ずかしさを感じて人前で押入を開けられなかった。「朝沼」の隣室には「昭子」とその娘「マミ」が住んでいた。「昭子」は夫に捨てられたと、「浅沼」は思っている。「朝沼」はいつしか「マミ」になつかれ、それが縁で「昭子」と知り合う。親しさを増していった「朝沼」達三人は、動物園に出掛け、家族気分で楽しいひと時を過ごす。動物園から帰った日の晩、「昭子」は「朝沼」の部屋を尋ねるが、「朝沼」は例の押入を開けようとした「昭子」を引き止めようとした。その弾みで「朝沼」は「昭子」抱き寄せ、口付けする。その後、「昭子」の夫が帰ってきて、彼女の家庭生活が再び始まった。「朝沼」の淡く切ない時間は、アパートを通り掛かったチンドン屋の笛や太鼓の音に乗るかのように終わりを告げた。切なさを胸に秘め、「昭子」達との夢のような日々を思い出しながら、「朝沼」は今まで押入にたまっていたサルマタを洗うのであった。本作のタイトル「赤いキッス」は1973当時の流行歌であったカゴメケチャップCMソング・「赤いキッス」から取られている。「赤いキッス」のモチーフが作品を構成するイメージとして用いられ、作中でも「朝沼」や彼の友人「串木」が作中で唄っていて、作品にメロディ感と軽快さをも持たせている(*4)。

●どこかへ
 金谷と別れた「ケーコ」は、店の主人とケンカして店を飛び出した。「ケーコ」は、パン屋の二階にあるアパートに住む「杉山」のもとに身を寄せる。しかし、「杉山」のアパートは水洗便所設置のため家賃が値上がりしたため、「杉山」と「ケーコ」は新しい部屋探しを始める。そんな中、ふと線路を走りゆく電車を目にした「ケーコ」は「杉山」を誘って、目的地を決めずに、運賃が許す限り遠くの駅まで電車に乗って行く。駅を出た二人は、海辺の町を歩く。途中で出会った老漁師の家で世話になった後、「ケーコ」と「杉山」は、夕日が傾く町を再びあてもなく歩く。前半での都会から後半の海辺町へと対照的に転換していく場面展開は、沈滞から微かながらも前進へと向かおうとする、主役二人の心境の変化を作品に暗示している。同時に、老漁師にライターでたばこの火を貸そうとするす「杉山」に対して、ガスがないと火が付かないような不便なものなんかいらないと自分のマッチで火を付ける老漁師の姿と、それに続いて、終盤でガス切れのライターに代わって「ケーコ」がマッチの火を貸す展開が読者に強い印象を受ける。本短篇集の最後にたばこ絡みの話を置いた編集者の編集感覚も興味深い。

                                                 (文中敬称略)


*1:松本正彦「松本正彦インタビュー」2005年1月24日、編集部(松本正彦長 
  男・松本知彦協力)  
  『たばこ屋の娘』復刻版所収 2005年2月、劇画史研究会 ひよこ書房
*2:前掲書 松本によると、松本は実在しないような、コミカルな造形で描か
  れ、大げさにシンボライズされたキャラクターが登場する、非現実的なス
  トーリーで構成された作品を「マンガ」と考えていたようである。
*3:前掲書掲載の、編集部解説による。
*4:阿久 悠作詞、小林亜星作曲 はしだのりひこ&エンドレス歌唱。物語始め
  で浅沼を訪ねてきた串木が唄い、中盤の浅沼と昭子との口付けの場面に連
  なる複線となっている。
  また、物語最後でサルマタを干す「浅沼」が唄う中、窓から干してあった
  赤いサルマタが串木の顔に当たる場面の複線ともなっており。軽い笑いを
  誘う。

 作品: 70年代短編傑作集『たばこ屋の娘』復刻版 私家版単行本全1巻
      限定500部 劇画史研究会/ひよこ書房発行

      2005年2月26日に中野の書店「タコシェ」の店頭&HP通販、ヒバリヤ書店・本店
      (東大阪市)でも文芸書コーナーで販売されていた。             
                                  
                         
                                
# by konlon | 2008-11-09 12:20 | マンガ

『パンダラブー』

『パンダラブー』 ―知られざる不思議世界―
            ●空・ドラ

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 ○パンダラブーとは
 松本正彦作の『パンダラブー』は、1972年より始まった第一次パンダブームに便乗する形で、1973年4月に貸本系のひばり書房から発行された全一巻の描き下ろしマンガ単行本である。ブタ状の鼻を持ち、二足歩行して関西弁を話すパンダ形生き物の「パンダラブー」が街中で騒ぎを起こすという内容のギャグ作品である。作者の松本正彦は、50年代の貸本マンガ誌『影』をはじめとする貸本マンガ界で活躍していた作家で、劇画グループ「劇画工房」にて辰巳ヨシヒロ、さいとう・たかを達と並ぶ人気作家であった。松本は作家自身の内的な時間を、音とテンポを感じさせるコマの運びで表現する方法を開発し、その方法論を、「駒画」という名で提唱した。同時期に提唱された辰巳ヨシヒロの「劇画」との対立、そして統合から「駒画」という語は姿を消したが、作家たちの方向性の違いにより、「劇画工房」は消滅することとなった。その後、マンガ界のメディア媒体が、貸本から週間マンガ誌に移行していった60年代後半になると、松本は、「ヘソゴマくん」等のギャグものやアダルトものも手がけるようになり、その中で『パンダラブー』が生み出されることとなる。『パンダラブー』(以後『パンダラ』)は、73年当時には衰退していた貸本系出版社からの出版物だったため、発行部数は少数で、ヒットには至らなかった。しかし1990年代初頭になって、大西祥平が単行本を古書店で発見し、作品の新たな面白さを感じた彼によって紹介されると、『パンダラ』に対する関心は貸本・劇画を知らない若年層の間で高まり、2000年には私家版の復刻版が発行され、2001年の『VOWでんがな』(宝島社)での1エピソード掲載を経て、2002年に松本正彦自身による”新作”を追加した、復刻単行本が青林工藝舎より発売された。

○謎の不思議世界
『パンダラ』本編は、何の前触れもなく、町を歩いている場面のコマから始まり、その後のストーリー展開の中で素性が判明することなく、「ケータ」少年や少女「ルミ子」や「ブス子」、ケータたちの通う学校の先生である、「スキ田先生」や「大口カバ子先生」、そして赤塚不二夫マンガに登場する目玉つながりの警官を思わせる「本官さん」などといった町の人々とからんで、さまざまな騒動を引き起こす。ケータのガールフレンド・ルミ子の誕生パーティーに強引に参加したり、人の役に立とうと思い立って、勝手に工事現場を畑にしたりする等、ストーリーには仕掛けも緊張感もなく、登場キャラクター達は謎だらけのまま、各自の感情の赴くままにストーリーを展開させる。復刻版単行本に所収されている、大西祥平の解説にあるように、『パンダラ』の作品世界は、彼らの登場理由や目的、状況説明もなく、存在意味すら不明であり、まさに不思議な不条理世界である。しかしながら、『パンダラ』は、その不条理さを読者に考えさせる隙を与えず、読者を得体の知れない、浮遊感に満ちた異空間に誘っている。『パンダラ』の生み出す異空間は、まとまりのつかない、不安定な線で描かれたキャラクター達が各自の感情のままに行動している所から生み出されているのだろう。加えて、クォータービュー(斜め角度の視点から見た景色)を多用して描かれた作品発表時の街頭イメージである、'60年代~'70年代の街を描いた背景も、浮遊感漂う異空間を演出している。『パンダラ』の面白さは、その異空間が、読者にマンガという読み物を「感じる」楽しみを
存分に味わせてくれるからではないかと思われる。(*2)パンダラを初めとする各キャラクター達が、自身の感情をありのままに表に出している所に『パンダラ』というマンガの最大の面白さが秘められているのであろう。例えば、パンダラが、道に落ちている100円玉を見て、飛び上がって喜ぶ様子などは、今のマンガでは見られないストレートな感情表現で、非常に印象的な場面である。それにしても、復刻版で”新作”が登場するとは予想もしてみなかったことであった。作品の雰囲気が、オリジナル版そのままで、30数年の時間を感じさせない所がちょっとした驚きであった。(これが松本の最末期のマンガ作品となり、一種の記念碑的存在となったことは、実に印象深い。)

○意識下の確かな技術が呼ぶ感覚
 『パンダラ』は、作者の松本正彦自身あまり覚えがなかった、と述べている。注文に応じて、不慣れなギャグマンガを描いた、やけくそ気味の、やっつけ仕事的作品であったというのである。その点から大西は、『パンダラ』の核心は「自意識」の無さにあると指摘した。市場に出回っているマンガには、作者及び編集者の意図が自意識として反映されるが、『パンダラ』は実力派といわれている作家のやっつけ仕事であり、作品が打ちっ放し的な出版であったため、キャラクター描写や背景描写などで構築されるマンガのデザインに、作者の潜在的なデザイン感覚が無意識に反映され、作品から作者及び編集者の意図が見られなくなっているのである。その結果、作中のキャラクターたちが製作者の意図から開放され、自意識を失うことになった。それが『パンダラ』の面白さであると大西は主張した。その点からみて、『パンダラ』の異世界は、貸本劇画で培った確かな技術が、作者にとって不本意ともいえる注文を受けても、なんとか形にしてみせようとする、一種のプロ根性とでもいうべき作家の信条下において、無意識の画才が発揮された結果の産物であったといえるであろう。これが読者の心にマンガの持つ楽しさを”感じ”させてくれるのかもしれない。この『パンダラ』を見て、松本正彦先生とその作品について感心を持った方がもっと多く現れ、貸本劇画時代の主要作家である松本正彦の再評価がこれを機会に行われることを期待する次第である。




作品:『パンダラブー』  オリジナル版  1973年4月、ひばり書房
               復刻新版  2002年9月、青林工藝舎 


*1:
松本正彦の劇画工房参加に伴い、「駒画」の語は消えたが、「駒画」の概念は、劇画の構成要素として継続された。(復刻版『パンダラブー』所収・松本正彦先生インビュー)

*2:
『パンダラ』では、読者は作中の「謎」について考える余地がなく、作品の中に見られる「現象」のみに心を引かれたように思われる。読者に強烈な印象を与えるパワーのある絵を持った作品では、物語の「謎」というものは作品を読む楽しみを阻害するものではない事を『パンダラ』は示しているといえる。
                                   
             
                                   
                           (文中敬称略)

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                     2008.10.6 空・ドラ

              発行:空琉総合研究所 2008 禁無断転載
      
                   2008 kongdra/空琉総合研究所
 
# by konlon | 2008-10-07 00:48 | マンガ

『プロペラ天国』 

『プロペラ天国』 ―回転と推進―
              ●空ドラ

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 ○恋愛探偵組
 現代か未来か分からぬ時代、この世には「普通人間」と「合成人間」の二種類の人間が存在していた。中学生の姉妹、桜田子糸と子鐘は、生徒の相談に応じる私設サークル「恋愛探偵組」を作り、活動を開始した。子鐘が気弱な姉を強くしようと謎の手帳「恋愛探偵組白書」をヒントにサ-クルを作ったのである。だが、子糸は合成人間であったため、調査対象となった他の合成人間たちに狙われる事になる…
 以上が富沢ひとし作『プロペラ天国』(以後『プロペラ』)の1~3話までのストーリー展開である。合成人間である子糸が自分以外の合成人間を敵に回して、普通人間のために戦うようなストーリー設定は『人造人間キカイダー』等の変身ヒーローものを連想させ、戦いの決着をつけるのが妹の子鐘であるというキャラクター設定は、1972年放映の特撮TVシリーズ、『アイアンキング』を髣髴とさせた。『アイアンキング』は静弦太郎と霧島五郎の二人が主役であるが、敵の巨大ロボットに止めを刺すのは、変身時間1分のアイアンキングに変身・巨大化する五郎ではなく、弦太郎の体力知力であった。『プロペラ』も敵の合成人間との戦いは、子鐘の体力知力が決め手になるのではないかと予想された。こうして、『プロペラ』は、桜田姉妹の掛け合いが楽しい学園アクションものとして、ストーリーが進行するのではないかという予感を感じさせた。しかし、4話以降、ストーリーは「恋愛探偵組白書」を軸にして、子糸・子鐘姉妹と合成人間との戦いが本格化する。校舎に隠されていたプロペラ付きの”戦闘型”合成人間が起動し、学校中の人々が記憶を操作される。子鐘もこれまでの記憶を消去され、子糸の性格はこれまでの「情けない」性格から「意地悪な」性格に変更された。子鐘は毎日のように繰り返される子糸の乱暴な振舞いに悩まされるようになった。小鐘は、子糸の優しさを取り戻そうと文通相手のペンネーム・「ラブラブ」から送られた本、「恋愛探偵組白書」の記事を参考にして、「恋愛探偵組」を再び作ろうとするが、これに気付いた子糸によって自室の衣装ケースに閉じ込められてしまう。だが、子鐘が閉じ込まれている間に戦闘型合成人間が活動を開始した。子鐘は文通相手の少年「ラブラブ」に助けられ、事情を知る。彼によると、「恋愛探偵組白書」は世界の動きを決める「シナリオ」であり、人々はそのシナリオに従って行動しているのだという。だが、シナリオでは合成人間は、最後にはその存在を否定されることになる。合成人間は自らの存在を維持させるためにシナリオを変更したのであるという。実はラブラブもプロペラ付きの戦闘型合成人間であり、「白書」のシナリオを本来の「オリジナル」に戻すために合成人間と戦っていたのであった。「白書」により、子糸が現在戦闘型合成人間達と戦っている所であると知った子鐘は、子糸を救いに戦いの場へと向かう。しかしその戦いは決着を迎えることはなく、戦いが今後も継続する事を暗示して、物語は静かに幕を閉じた。ストーリー全体の印象は、ドラマのTVシリーズでいう所の最初の1~2話分と最終の2~3話分を直接つなぎ合わせたような感じであった。個性的なキャラクター達とアクロバティックなストーリー展開で描かれた不思議空間は、富沢ひとしのマジックここに極まれりといった印象を読者に与えた単行本一巻分のストーリーであった。

続きは…
# by konlon | 2008-09-16 20:17 | マンガ
『エイリアン9』の魅力を伝えたい!─対策係のいる世界─
                                ●空ドラ

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○『エイリアン9』の魅力とは?

 1998年に突如出現して読者に強烈な印象を与えた、富沢ひとし作のマンガ・『エイリアン9』は、近未来の小学校に設置された「エイリアン対策係」に所属する少女達を主役にしたストー
リーであり、「エイリアン」という異界の生物が日常の世界の中に進入している世界設定を採り入れている。そのことによって、人間自体の持つ常識観念が変革させられた、日常と非日常の入り混じった、どこか尋常ならざる世界というものが読者の関心を引き寄せ、彼らに何か言いようの無い印象を与えることとなった。『エイリアン9』(以後『A9』)ではキャラクター達の繰り広げるドラマが、異質のものが通常に見える、分かったようで分からない感覚を覚えるような世界において進行するため、読者の心には強烈な揺さぶりがかかり、不思議な感動となった。そして、その感動は、言葉では言い表すことのできない、何か凄くて素晴らしいものとなって、読者の心に残った。
 こうして、『A9』の魅力に惹かれた読者は、その魅力がどこから発せられるのかを追い求め、
『A9』の持つ”凄さ”や”素晴らしさ”を人々に伝えようとした。

○エイリアン対策係になりたい!

 マンガ作品・『A9』に秘められた、その”凄さ”や”素晴らしさ”を自分以外の人々に伝え
るための、的確な手段とは一体何か?『A9』のファン達は世界観の描写や、作画技法、現代思想の視点での解釈などから『A9』の魅力に迫ろうと試みた。『A9』の内容や構成要素を分析して、『A9』についての各自の解釈を打ち立て、それによって『A9』の”凄さ”や”素晴らしさ”を世間に伝えようとしたのである。ところが、何か物足りない印象がするのはなぜか。『A9』の持つ凄さや素晴らしさというものは、作品の内容や構成要素とは違った所にもあるらしい。それは無意識的な感覚としての、言葉では言い表せないものであり、言葉や文章で表現することが難し
い。こうした状況で、言葉や文章に代わって『A9』の魅力を伝えるべく、何人かの『A9』のファンたちは、『A9』の持つ”凄さ”や”素晴らしさ”を各自の表現に変換して、『A9』の魅力を伝えようとした。そして、ファンたちは、一つの表現手段として、彼ら独自の「エイリアン対策係」を創作したのである。それは、ファンたちが『A9』の世界に自ら入り込み、「エイリアン対策係」を彼らなりの解釈で模倣しようと試みることであった。ファンたちは『A9』の魅力を伝えるための究極の伝達手段を感覚的に考案したのであったともいえる。
 『A9』のヤングチャンピオン・コミックス版全三巻が揃った後の2000年頃から、いくつかの『A9』ファンサイト上でファン独自の「エイリアン対策係」が掲載されるようになり、それらはいつしか「ぱらきゅう」という通称で呼ばれるようになった。インターネットとホームページの普及によって、『A9』ファン達の意見発表や交流の場が提供されたことによって、ファン各自が創作した「エイリアン対策係」は、ネットワークを通じて不特定多数の人々に早く確実に発表することが容易になったのである。本家の『A9』が自由度の高い世界設定を持っている雰囲気を有していたことが、読者にエイリアン対策係の創作を可能にしたのだと思われる。『A9』の世界設定では「エイリアン対策係は第9小学校以外にも設置されている」ことになっている。つまり「本家『A9』のゆり、くみ、かすみの3人だけが対策係ではない」という設定であり、これによって、読者は作品世界へ容易に参入できるようになっているといえる。また、『A9』の主役達が、強大な超常能力をもって物語の世界を動かすというような存在ではないという点は、読者が物語世界の住人として『A9』の世界観を受け入れることが可能であると同時に、受け入れた『A9』の物語世界を自分なりに補完することを可能にしている。本家『A9』に登場するキャラターたちに対し、自分ならこうしたいというような思いを、ファンたちが創作した「エイリアン対策係」のメンバーに託すことができる余地が充分にあるのだともいえる。(共生型を含めて)エイリアンが気持ち悪いと言うような世界設定の中で見せる、『A9』のストーリーには、それを見た人に何らかの行動を起こさせるようなアクティブなパワーが秘められているのでないのかと推測されるのである。

○マンガ本来の面白さ

 私が『A9』を読んで、その異様な世界に関心を持った際、『マンガ地獄変』にて宇田川岳夫が紹介した、「トラウマ・マンガ」をはじめとする、80年代以前に発表されたマンガ作品と何か関連があるように思われた。(*1)古い時代に発表された「トラウマ・マンガ」と呼ばれるような、B級マンガ作品こそが『A9』を読み解く手掛かりになるのではないのかと私は考えた。
 これら古い時代のB級マンガを参考にして、『A9』に通じる所を探り出してみたところ、私は、『A9』における、エイリアン「ボウグ」の外見が作品のイメージを構成する要素がドリルのモチーフで統一されている点や、エイリアンが人間と”寄生”するのではなく”共生”するといった科学的に微妙なセンスを持った設定を重視している点が、60~70年代のB級マンガ作品に通じるのではないのかと考えた。マンガがまったくのB級文化だった時代に発表された作品群は、内田雄一郎(ロックミュージシャン)によるとアナーキーな、管理されていない世界であり、それらは音楽でいうところのインディーズに例えられ、(*2)作者の創造力が最大限に発揮された、言い換えれば作者の脳裏に浮かんだイメージが直接表出された作品であったという。古いB級マンガには自由奔放な面白さがあり、時には安っぽく、キッチュで、いい加減な内容を持つ場合があ
った。また、それらにはある種の毒々しさやいかがわしさを持つと同時に作品に巨大なパワーを与え、マンガ本来の面白さを形成していた。このような古いB級マンガを参考にして『A9』の内容を考えてみるに、『A9』は作者が自分自身の信じるイメージを直接的に描き出した作品であり、ゆえに巨大なパワーを持っているのではないであろうか。『A9』にはマンガ本来の面白さが込められており、読者に理屈ぬきで作品を純粋に味わう感覚を再び目覚めさせるような作品
であったといえるであろう。

○「偽史」的想像力

『A9』はマンガ本来の面白さを感じさせる作品であり、読者に何らかの行動を起こさせるアクティブなパワーを秘めていた。その自由奔放でアナーキーさを感じさせるイメージには、宇田川の言葉を借りれば、「偽史」的想像力を有しているのであろうと推測される。それは表現が受け手をも巻き込んで別世界を創造してしまうような開かれた想像力であり、それに関わる者全ての意識を変容させるほどの魅力を持っているという。宇田川によると、「偽史」とはありうべき過去や未来を捏造するために語られる物語であり、正史の狭間に入り込んで正史を相対化して、無限に増殖していく物語であるという。「偽史」は芸術の世界にも影響を及ぼし、文学等の芸術作品中に「偽史」的イメージが導入される。また、「偽史」的イメージは、支離滅裂である場合があり、受け手による補完の可能性を持っているのであるとも宇田川は主張した。(*3)
 『A9』は地球環境を一変させたらしい大異変によってエイリアンが出没した2010年代を舞台にした物語であり、そこには解き明かされることのない謎が物語中に秘められ、読者が手を加える余地のある物語設定を持っている。そのため、作品中に豊富な「偽史」的想像力を呼び起こしているといえるであろう。その「偽史」的想像力が『A9』の魅力であるとともに、ファンとなった者に「ぱらきゅう」を創作させる要因ではないのかと私は考えている。

(文中敬称略)



*1:宇田川によると、トラウマ・マンガとは、60年代から70年代にかけ
て発表されたマンガ作品の中で、作者の自己表出や妄想を具象化した作品群で
あり、読者にトラウマを引き起こさせるような作品である。徳南晴一郎の『人
間時計』に代表される貸本劇画末期頃の作品から始まって、ひばり書房刊行の
少女向けホラー作品、少年誌掲載作品上で展開された。しかし、マンガの目指
す方向は作者の自己表出よりも読者の欲望充足に変わっていき、編集・営業主
導のマンガ製作体制や表現の規制によって、80年代にはトラウマ・マンガは
姿を消したといわれている。                      
             
*2:『マンガ地獄変』植地毅、宇田川岳夫、吉田豪他著 1996年、水声

*3:『フリンジ・カルチャー』宇田川岳夫、1998年、水声社


参考文献
『マンガ地獄変』植地毅、宇田川岳夫、吉田豪他著 1996年、水声社
『マンガゾンビ』宇田川岳夫、1997年、太田出版
『フリンジ・カルチャー』宇田川岳夫、1998年、水声社
『とても変なまんが』唐沢俊一、2000年、早川書房
『まんがの逆襲』唐沢俊一編、1998年、光文社文庫

 
作品:『エイリアン9』   1巻 1999年3月 秋田書店
               2巻 1999年7月 同上
               3巻 1999年12月 同上

    『エイリアン9‐コンプリート‐』(三巻本を一冊にまとめて、
                     新ページを追加) 
                    2003年6月 秋田書店

    『エイリアン9‐エミュレイターズ‐』(『エイリアン9』の
                     続編シリーズ) 
                    2003年6月 秋田書店
            
                                  
                           

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後記:今回は、『エイリアン9』の魅力について考察してみました。古いマンガ作品を手掛かりに『A9』を読み解いてみましたが、その中で感じたことは、昔のマンガが持っていたマンガ本来の面白さを『A9』も持っているのであろうということです。それは、TVアニメ『機動戦士ガンダム』が大ブームになった'80年代初頭に発生した「MSV」(モビルスーツバリエーション、作品に登場するロボット系メカを、ファンたちが独自に解釈して作品を楽しんでいた)を想起させるものであったと思います。また、『A9』の凄さや素晴らしさの奥にある「偽史」的想像力については、『A9』を考える上で注目されるべき事項ではないでしょうか。
 『エイリアン9』のファンサイトについては、現在「エイリアン9プラネット」('09年10月16日閉鎖)のサイトで幾つかのファンページが登録されていますので、そちらを参照してみると良いでしょう。

                     2008.8.31 空ドラ

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# by konlon | 2008-08-31 23:33 | マンガ