パーソナル文化研究所・空琉館の情報誌的ウエブログです。


by konlon

カテゴリ:マンガ( 26 )

『観光王国』 

アップがかなり遅れてしまいましたが、『庭先案内』第三巻発売を前に、須藤真澄先生の短編ファンタジーを振り返って、『庭先案内』シリーズ以前の短編集を取り上げてみます。今回は須藤先生初のファンタジー短編集『観光王国』です。

************************************************************************************************************

『観光王国』 ―幻想世界の旅路―   by空ドラ

須藤真澄の作品集『観光王国』は、1988年から1989年にかけて、マンガ・アニメーション情報誌『コミックボックス』に「ピュア・ファンタジー・ゾーン」として掲載されていた読切短編を中心にしたファンタジー作品集である。浜辺や公園、川岸の土手といった普段目にする場所で展開される幻想的な光景を主題として、日常世界に潜む異世界のイメージを作者の感性で捉えられる上で可能な限りの表現方法を駆使して描き出している。


○「観光王国」
旅する男が宿に戻る途中で出会った少女は、魚を集め、集められた魚は少女によって血を絞られる。その血は型に注がれて魚型の塊になる。そしてそれらは生きた魚の餌になる。命の循環というようなものを、魚のモチーフを用い、夜の異国風町並みの中でひっそりと描いたこの短編は、この短編集のオープニングを飾るにふさわしい作品といえる。

○「明けの気配」
絶滅動物の最後の一匹には、「生」への念によるエネルギーが発生するという。彼らの念は神によって集められ、生命として再生されるのであろうか。この話では神による世界の終わりと再生がもの静かに進行している。世界の終わりというものは地味に、気が付かないままやってくるのであろうか?事実を知った者を手元に呼んで救えなかった神の悲しげな表情が印象に残る。

○「いざや、波」
妹は浜辺で亡くなった兄を思い続けている。妹は鳥のような形をした深海魚に、海底の空を感じ、兄の眠る魂の安らぎの場を見出したのだろうか。そして浜辺が失われ、海と陸との間に”結界”が生じる時、妹も海底に消えていく…。兄の名は凪、妹の名はナミ。失われていくものを主題にした、”せつなさ”が漂ってくるような作品である。浜辺に浮かぶゴミの表現が、汚(けが)れ行く浜辺の姿に奇妙なほどのリアリティを感じさせ、”せつなさ”を強調させている。新版のカバーイラストは、「いざや、波」のナミと浜辺が、水彩で描かれている。青系統でまとめられた絵は、どこか悲しげな表情を浮かべ、作品の持つ”せつなさ”を無言で物語っているようである。

○「少年王に白い雲」
父親は四日間の休暇を利用して、部屋に土を敷き詰め、少年時代の遊びを再現した。彼は娘と彼女の友だちを呼び、共に楽しむ。父親も少年時代の”てっちゃん”として遊びの輪に加わるのであった。四日の間、てっちゃんの思い出を子供たちと共有した後、彼は父親として、日常に戻っていく…。講談社アフタヌーン誌編集部主催の新人コンテストである、アフタヌーン四季賞・1988年秋のコンテスト応募作品として製作された作品。アフタヌーンの誌風に合わせたためか、須藤の短編系作品にしては珍しく、超自然的な現象が登場しない”現実的”な作品であるが、物語の中に感じられる暖かさと爽やかさは実際に実現可能な、居間に作った地面を、非現実的な幻想世界へアクセスさせ、児童文学的なファンタジー空間を成立させている。。
(初出:『アフタヌーン』1989年1月号掲載)

○「ヒナタボッカー」
謎の男は壺に太陽の暖かさを集めて花を咲かせる。太陽光線の、ぽかぽかとした暖かさの表現と、昼と夜との対比、台詞なしの絵だけで進行する物語は、不思議な世界を形作っている。

○「THE ANT-アリおばさんの恐怖」
絵の具を洗った水を浴びて人間大に巨大化したアリが主役の話。巨大化したアリおばさんは、地面がよく見えず、仲間のアリを踏みつけてしまうか分からない。「アリおばさんの恐怖」は、恐怖と苦悩にとらわれたおばさんの「恐怖」なのである。

○「アスパラガス・ハイ」
木の葉を食べ、脳内麻薬とされる物体を、頭から出すことのできる男の苦悩を描いた三回連続作品。最大の見所は、男の頭からの分泌物による幻覚の描写であろう。水中を思わせる浮遊感に加え、モノクロ画面でありながら、極彩色を感じさせるサイケデリックな画面を、スクリーントーンを駆使して表現している。そして、夜のイメージを主要な物語舞台にすることによって、特殊能力を持っているがゆえに様々な組織に目を付けられ孤独に陥った男の悲しみを一層際立たせている。

○「早苗と青い子供」
少女早苗は、ふとしたことから河童に出会い、河童の国に案内される。村の子供たちの守り神として、一人に一匹ずつ河童が生まれるのだという。河童は十年後に子供の成長を見届け、死んでいく。作品には透明感があふれ、自らの宿命を受け入れて生きる河童の、切なく、悟りにも似た表情が読者の心を打つ。河童の国である、水中世界の描写には、低重力感が見られる。また、早苗の暮らす、一昔前の農村風景も作品の透明感をいっそう際立たせている。

○「桜東風」
老女「りう」と川の水温計りで有名な老人「江戸一」との心の交流を描く。川の水は、桜橋の下を流れる所で心を通わせるのに最適な水温になるという。水を通して通じ合う同世代間の心の交流を、暖かさと涼しさが同時に足の感覚として伝わってくるように描き出している。足の皮膚に直接感じる、川の水の温かくもなく、冷たくもない水温が画面の中から伝わってくるようである。背景を省略したコマが、夏の日の気温が高いが爽やかな空気を感じさせる。


『観光王国』 1989年4月、ふゅーじょんぷろだくと
   新版  1999年9月、エンターブレイン 

                                                (文中敬称略)
[PR]
by konlon | 2007-10-22 23:12 | マンガ

新作登場!

1月に発売された須藤真澄先生の新刊・『庭先案内1』は、雑誌連載時より発売が期待されていた、久々の須藤ファンタジー作品集であり、先生独特のものといえる、短編のストーリー展開や画面の構成、作画表現のハーモニーが楽しめる内容である。

今回は雑誌掲載時に私空ドラが他で紹介したことのある、第三回「メッセージ」を改めてとりあげてみる。

(ネタばれ注意か?でも、知ってても面白いかも)
ストーリー概要:
 両親がシンガポールに出ているため、現在二人で暮らしている姉妹がいた。妹は最近夜になると「びわ」「かめ」「こめ」などの文字を部屋の壁に落書きするようになっていた。眠っている妹が無意識に行っているのだ。大学生の姉はその原因を究明しようと、ある夜眠っている妹を見張ることにした。突然起き出して落書きしようとした妹を姉が取り押さえたとき、妹の耳から七福神が現れた。彼らの話を聞いたところ、姉がお守りとして両親に渡した、姉自筆の七福神の絵に恵比寿様が無かったことに講義しようと、七福神は妹の夢に入ったとのことであった。姉は描き疲れて恵比寿様を描き忘れていたのである。初めは姉の夢に入ろうとしたが、姉の夢には、現在彼女が関心を持っている、曼荼羅のイメージに占拠されており、その「サイケ」さに耐えられず彼らは妹の夢に入ったのであった。妹が夢で七福神たちを見たとき、妹は七福神個々の持つ各アイテムに注目していたので、妹は、琵琶や亀など七福神個々に見えるアイテムの名前を無意識に書いてしまっていたのである。姉は恵比寿様の絵を、改めて両親のもとに送ることを約束し、七福神は宝船に乗ってシンガポールに船出した。こうして一夜が過ぎ、姉は目を覚ましたがその夜のことは忘れ去っていた。
しかし、翌朝壁を見ると、そこには姉妹に向けての、七福神からのメッセージが書かれていた。姉は壁に恵比寿様を描き加え、落書きの書かれた壁を写真に撮って両親に送ろうかと思うのであった。大阪在住の姉妹を主人公にした短編であり、姉のボケと妹のツッコミが軽快で楽しい。キャラクター描写も、須藤独特の眼の表現が各キャラの性格を明確に表し、上方漫才的ストーリー展開に一役買っている。ラストの、七福神の乗る宝船がシンガポールに旅立つイメージ描写は、雲を斜めに配した空に、宝船とシンガポールのシンボル、「マーライオン」像をトーンの切り絵で表現し、画面右下に配置された大阪のシンボルである「通天閣」と対比させて、印象的な爽やかさを演出している。

東京都墨田区出身のファンタジーマンガ作家である、須藤先生が関心を寄せているものの一つとして、大阪を中心とする関西圏の文物が挙げられる。須藤先生の関西文化に対する"想い"は、作品の中にいくつか見受けられ、この「メッセージ」に見られるような、上方漫才的なリズム感は、須藤先生の作品が持つ、「静と動」の対比を際立たせ、ストーリー展開の軽快さに多大に関っていると思われる。須藤先生の関西文化への並ならぬ関心と憧れが作品から感じられる一編であり、作品中に見られる作画描写やキャラ同士のの掛け合いから、新たな須藤先生のファンタジー表現を垣間見せてくれる、非常に興味深い作品といえるであろう。
[PR]
by konlon | 2006-02-24 07:21 | マンガ
1974年から1980年に『週間少年チャンピオン』で連載されていた山上たつひこ作の漫画作品『がきデカ』はその生理的刺激を誘う描写と感覚に訴えかけるギャグによって、当時の読者からの絶大な反響を呼び、全26巻の単行本は数多く売れたという。しかし、現在我々は『がきデカ』を見たいと思っても容易に目にする機会はほとんどないように思える。26巻も発売されながらもチャンピオンコミックス単行本を古書店であまり見ない。近年になって選り抜き形式の、ベスト盤とでもいうような"傑作選"がマンガ文庫や「コンビニマンガ」で見られたが、それもすぐに姿を消して、増刷もされていない。ギャグが過激であり、時事ネタの導入が多かった事もあるだろうが、他の人気マンガ作品と同じように、目にした者に少なからず影響を与えたであろうことから考えても、見たいときに目にできるような環境を作っていただきたいものである。
さて、『がきデカ』には、葡萄畑によるイメージ曲が作品連載当時に作られている。「がきデカ恐怖のこまわり君」は、洋楽ロックを取り入れながらも、マンガ作品のもつ、価値観破壊色の強い作風が音楽に変換されていて、『がきデカ』のマンガを知る者にとっては、思わずノリに乗って口ずさみたくなるような曲である。シングル版B面の『スジ子のブルース』も、『がきデカ』のノリを引き継いだような感じで、歌詞と曲の織り成す不条理性を、A面から流れるように展開させて、飽きの来ないレコードとなっている。(CD『ニューロックの夜明けポリドール編・自由に歩いて愛して』に収録。現在入手は難しいか)また、葡萄畑のアルバム『スロー・モーション』には「恐怖のこまわり君」の別バージョンが収録されているが、アングラ歌謡特有の早回が使われた歌唱と、アルバムバージョンの後半部をカットした構成は、マンガ作品のもつ不条理性のイメージを音楽で表現したもののように思われて面白い。
『がきデカ』は、'89年に突如思い出したかのようにアニメーション作品化され、TVシリーズとOVAの両方(別企画で始まる)発表された。ビデオレンタルが普及しだした時期であったものの、OVAは注目を集めなかったらしく、TVシリーズ(フジテレビ系列で放送)は『ハイスクール奇面組』、『ついでにとんちんかん』といったジャンプ系作品を、時勢の要求に沿った、洗練された感覚でアニメ化していた時間帯で放送したため、『がきデカ』に登場するヒロイン達を前面に立てた構成になっていた。そのことが、時代の空気にずれを生じ、どこか違和感を感じてしまう雰囲気を持っていたのであろうか、TVアニメ版は原作のイメージを忠実に再現していたにもかかわらずマンガ同様の大ヒットとはならなかった(OVA版も同様か)。ギャグ系作品は作品の人気が上昇している時期にあわせてメディアミックス展開させることが各メディアでの人気拡大にとって重要であることを、これは示していたのであろうか。アニメ版と連動する形で、チャンピオン誌上に『がきデカ』の新作が月一回の形式で全12回が掲載された。それは、漫画家としての、山上たつひこ自身の締めくくりの場でもあった。(*)'89年の、このアニメ化は、原作者の山上たつひこに最後のマンガ製作の活動を人々に示すための機会を提供していたともいえるであろう。


*:但馬オサム「作者引退のために描かれた『がきデカ』新作の味わい深い終わり方」参照、
『こんなマンガがあったのか!』所収1999年11月、メディアファクトリー
[PR]
by konlon | 2005-11-28 01:57 | マンガ

マンガトラウマ?

 高田明典氏著の『アニメの醒めない魔法』では、心理学と構造主義の方法論で幼・少年向けTV番組作品に込められた暗喩とそれが視聴者に及ぼす影響を指摘し、アニメ・特撮作品の存在意味を考えさせてくれる。また、表紙カバーは「ドラえもん」の顔アップを思わせるデザインの上に縦書きのタイトルが、ドラえもんの目へと向かって、左端から右斜め下へと順に文字を小さく表示し、副題を目の内側に配置して、アニメ作品のもつ"魔法"が人々の深層意識下にもぐりこんでいくかのような印象を与え、心理学を駆使した本書のイメージ強調されている。(カバー下の表紙は、ピンク地に美少女戦士キャラクター風の目が描かれている。)本書の主題を心理学的に補強主張するかのような表紙であり、書籍全体をもって一つの"著作物"であることを感じさせる。
 さて、『アニメの醒めない魔法』で主張される、TV番組の暗喩は番組だけでなくマンガ作品にも当てはまる所があるように思われる。アニメや特撮作品が人気マンガを原作にしているものが多く、『ドラえもん』のようにマンガの内容がそのままアニメ番組で再現される場合もあれば、『巨人の星』にみられる様に、キャラクターの心理描写が動画の映像表現によってマンガ作品よりも過剰に強調され、マンガ以上に受け手の深層心理に強烈に働きかけることもあるが、両者の関係は親戚のような関係となっている。「アニメ」の醒めない魔法は「マンガ」の醒めない魔法でもあるといえる。『アニメの醒めない魔法』で紹介された心理学/構造主義による作品の分析方法は、マンガ作品でも応用が可能になるだろう。本書はマンガ作品研究やマンガ作品の読者に与える影響を考察するための方法論に一つの指針となるであろう。
[PR]
by konlon | 2005-10-02 22:09 | マンガ
 思想、思考、行動原理といった人の精神構成は,幼少期の経験が最も大きく関るとされる。'60年代以降に幼少期を過ごした世代には、TV番組の視聴経験が大きな割合を占めているようであるが高田明典氏の『アニメの醒めない魔法』は、'60年代から'90年代初めのアニメや特撮の人気作品を、心理学と構造主義の手法によって分析して、主に本放送時に視聴した人々に及ぼす影響を考察している。あらゆる読者層を意識した内容であるからか、少女ものに関する項目も充実しているが、巻末のあとがきによると、筆者の嗜好によるらしいところも見られ、この点はアニメ・マンガファンが思わずニヤリとなりそう。
 さて、本書によると、等身大変身ヒーローものでは、敵の組織は大人社会の暗喩であり、主人公の「変身」は大人社会に対抗するための、一時的な大人への「変身」であるととらえている。また悪の組織によって改造された主人公は、子供を助ける「良い大人」であり、そしてその深層には、子供の大人社会への反抗がみられるのだと考えている。『ドラえもん』では、ドラえもんは超越者、ひみつ道具は欲望を実現する科学の象徴であり、それを独占して問題解決を図るのび太は科学にひいきされる存在であるが、のび太は弱者であり、科学からのしっぺ返しにより戒められるため、ドラえもんの、のび太へのひいきは許されるのであると述べられている。娯楽作品には視聴者への禁忌と欲望の喚起と解消がその中に組み込まれ、視聴者にとっての現実での問題解決のヒントを彼らに示す。それが作品に人気を呼ぶのであると筆者はいう。だが作品の深層において引き出された禁忌と欲望、その解消は視聴者(特に幼少の)が無意識にしかも強烈に受けた影響は彼らの思考や行動を歪ませるのであるという。高田氏はその思考や行動を象徴的に「アニメトラウマ」と命名し、世代間の問題を解き明かす上での一要素として考えている。『ドラえもん』を観た者は、自分が選ばれた存在であると考えたりするような可能性があるというのである。筆者は娯楽作品中で引き出された禁忌の欲望を処理するための、虚構世界と現実世界との接点として、最終回が重要であると指摘している。虚構が虚構として完結し、「夢から醒めた」状況がなければ子供の心が歪み、好ましからぬアニメトラウマを助長させてしまうと筆者は考えている。アニメ(実写ドラマ)作品は「しっかりした最終回」をもつべきであり、視聴者に”醒めない”夢を見続けさせる魔法であってはならないと主張する本書は、娯楽作品が子供達の人気を呼んだ秘密を、心理学と構造主義の方法論を応用して解き明かし、必要な専門語の解説を交えながら、敬体で肩肘張らないような口語的な文体で書かれ、アニメ・マンガファンの好奇心を引き付けるだけでなく、教育関係者やアニメ製作者に向かって、子供たちの心に育まれた禁忌の欲望の解消をTV番組に求めている事実を認識させ、子供たちに感動を与え、悪影響を与えないような傑作を作って欲しいという願いが込められているように感じられる。初版から約10年経つが、口語長の文体や最終回の重要性を主張する点に個性がみられ、創作作品の解説書としては傑作の一つに数えられるのではないかと思われる。

君のアニメトラウマはどの作品から?

作品:『アニメの醒めない魔法』 高田明典 1995年、PHP研究所
[PR]
by konlon | 2005-09-26 00:21 | マンガ
1995年前半は、阪神・淡路大震災から始まり、東京都地下鉄サリン事件とそれに続く形で展開したオウム真理教関連事件が報道され、人々を不安な心理にさせる事件が続いた。そんな状況下での6月、竹書房発行の4コマ&ショート作品系の雑誌『まんがくらぶ』において、ファンタジー・マンガ作家の須藤真澄作によるショートストーリー「ごきんじょ冒険隊」の連載が始まった(~'96年8月まで。全14話)。主人公の少女「まな」が自分の住んでいる町の中で体験する、不思議な出来事を優しく穏やかに、時に軽い笑いを交えながら描いたファンタジー作品であった。日常に出現する不思議だが心を和ませてくれるような優しさを持った非日常を子供の視点からとらえたこの作品は、'95年前半の暗く不安な雰囲気を和らげてくれるような作品であった。また、この「ごきんじょ冒険隊」は須藤真澄デザインのキャラクターを使った、パイオニアLDC製作のスーパーファミコン用ソフト発売とのタイアップ企画でもあった。SFCゲームの『ごきんじょ』は、猫の「ゆず」を連れた主人公のまな(幼稚園児)が、偶然出会った神様から町の平和を守ってほしいと頼まれ(*1)、お友達と「ごきんじょ冒険隊」を結成し、町を脅かす敵と戦う、という内容であった。ゲームはロールプレイング・ゲーム形式であるが、主人公を始めとする主要キャラを幼稚園児に設定して、彼女ら主人公チームのキャラクターを幼稚園での、月曜から土曜までの授業で(*2)育成することで、戦闘による"経験値"に頼らない、キャラの能力向上を実現している。それにより日曜日の冒険パートに入る前に、キャラクターの基本能力を半ば任意に設定する、セット・アップ的な効果も与えている。ゲームの冒険パートは、糸井重里プロデュースの『MOTHER』/『MOTHER2』のゲームシステムを参考にしているが、『MOTHER』シリーズの'50年代アメリカをイメージした世界観に対して'70~'80年代の日本小都市をモチーフにすることで、日常の中の非日常の世界にある種の土着感を付加することに成功している。冒険隊のメンバーとなる、柔道家の娘、お金持ち、天才少女、太っちょの泣き虫の愉快で個性豊かな面々や、敵キャラである、ワタベグループ総裁の娘で、意地悪な性格の「ななこ」が率いる「ななこ親衛隊」、「ななこメカ」といったキャラクター達が、主人公の住む町を舞台に所狭しと活躍し、やがて物語は冒険隊vsななこの対決から真の敵となる「悪意」の出現とその撃退へと移行していく。共通の敵である「悪意」の存在に気付き、町の人々を脅かすその「悪意」を打倒するため、ななこは改心し、冒険隊と行動を共にする。そして、主人公チームは最終目標となる「悪意」の本体との対決に向かう…。ゲーム画面のデザインは、ギャグマンガで見られるような絵柄でありながら、何か優しさのある、暖かな感じのする絵で描かれていて、日常に潜む冒険という、作品のテーマを引き立てていた。必要最小限で描かれたグラフィックの絵柄には、プレイヤー各自が自身の手によって、ソフト中の足りないと感じる所をプレイヤー自身の想像で補完する余地があり、その想像もプレイヤーの楽しみであった。また、物語は4月から始まり、全ての事件が解決した9月に終了するが(容量の関係もあったのであろうが)、それにより物語にゲームとしての軽い緊張感と緊迫感が与えられ、引き締まった展開になっている。『まんくら』連載版「ごきんじょ」は、須藤ならではの、優しさのあるタッチで描かれた、ギャグコメディーという感じであったが、そこには悪役との戦いは見られない(*3)。外の世界に抵抗を感じる主人公のまなは、自宅の玄関に現れた謎の回覧板に誘われて、飼い猫のゆずとともに町内を探索する。町内での不思議な体験を通じて、友達を作り、外の世界と触れ合っていく。主人公を町内の冒険に駆り立て、町の人々と触れ合っていくための鍵となる小道具として、回覧板を設定している所が面白い。町という住人たちの共同体において、住人間の交流関係をつなぎ合わせる役割を持つ回覧板は、「ごきんじょ」を象徴するものであり、まなの"友達探しの冒険"を体現するには最適の小道具であったといえるであろう。最終回でまなは回覧板と共に突然現れた子供にこれまで冒険した町を見せる。そして、最後に子供は回覧板を持ってまなの母親の胎内に入っていった。新たな家族としての兄弟/姉妹の誕生への期待を見せながら物語は幕を閉じる。回覧板による「ごきんじょ」冒険の終着点がまなの母親であったことは、人々の交流の原点が"家族"である事を再認識させてくれる。
「ごきんじょ」の単行本はゲームソフトとのタイアップ企画であったため、単行本化は難しいと思われたが、全一巻の単行本が97年6月下旬に竹書房より発売された。『ごきんじょ』単行本ではゲーム版の内容解説やマンガ版とゲーム版との違い等、ゲームソフトと関連した情報が巻末に発表された。(*4)『ごきんじょ』は、ゲーム版が同時期にリリースされた他ソフトと比べて、普及数は少数であり、単行本発売時には既に入手難になりつつあったにもかかわらず、巻末で紹介した事は、ゲーム版製作スタッフに対する敬意の表れであろう。また、ゲーム先行企画である事から来る、権利関係などの事項を解決処理して、単行本化してくれた竹書房の功績も評価されるべきであろう。単なるタイアップ企画として終わらせずに、マンガ作品とスーパーファミコンのゲームソフト作品との、互いの立場を尊重しながらも、須藤真澄の作品としての位置づけを重視してまとめられた、単行本の構成や意匠には、ファンを大切にする竹書房スタッフの思いが込められているように感じられる。これからも作家やその作品、読者を大切にした単行本を作っていただきたいものである。

                                                (文中敬称略)
      
作品:『ごきんじょ冒険隊』 1997年7月、竹書房


*1:RPG版のストーリー構成は、RPG版を監督した黒田洋介の手による。また、実際のゲーム上では、神様が主人公に町を守れと命じているような台詞は見られない。

*2:例えば「たいそう」を学習すると攻撃力のパラメータが、「おはなし」では知能のパラメータが上昇する。これらの組み合わせによって攻撃重視の実力行使型や説得による交渉型など、RPGパートにおける、戦闘での戦闘スタイルをキャラクターごとに設定することが可能である。

*3:作品終盤近くの12話で意地悪娘として、ななこ登場のエピソードがみられるが、ななこは次の回で改心する。まなの母が、今は亡きななこの母と同じ容姿であることに気付き、生き別れの姉妹であると亡妻/母を慕う渡部とななこに吹き込んだという展開になっている。

*4:単行本巻末のゲーム紹介の記事には、『まんくら』版のセルフ・パロディともいうべき、須藤自身によるマンガ形式でのゲーム版ストーリー紹介や、新聞記事形式での解説など、お遊びの部分が含まれているが、ゲーム版についての大体の情報を伝えている。『ごきんじょ』のゲームがあまり出回っていなかった事も関わっているのかもしれないが、マンガ版とゲーム版との関係を巻末で紹介した点は特筆すべきであろう。

追記:
 この『ごきんじょ』ではOPテーマのイメージ曲として、インボイスの「幸福が…」(シングル&アルバム『サイクルズ・オブ・ヒストリー』収録)を、EDテーマは高野寛の「Sunny Day Weekend」(アルバム『レイン・オア・シャイン』収録)を選曲してみた。 OPはこれから始まる冒険のワクワク感を感じさせる曲として、EDは冒険の後の爽やかさをイメージしている。
[PR]
by konlon | 2005-09-17 23:56 | マンガ