パーソナル文化研究所・空琉館の情報誌的ウエブログです。


by konlon

カテゴリ:マンガ( 26 )

『梅鼠』

『梅鼠』 
 -ますびファンタジー・ザ・ベストPart2-

    ●kongdra(空・ドラ)


 人間世界における日常の盲点を縫って訪れる異界…。それは現世において、"神"の声を聞き姿をを見ることのできる者と接触する。「むすめ」と「じじばば」は、異界への扉に最も近い存在であり、"神"が人の姿を借りる時に見せる現身の姿であるという。少なくともファンタジーマンガの須藤真澄にとっては…。異界からの来訪者に誘われて、日常から異界、そして再び日常へと帰っていく人々の小さな「物語」を、「少女」と「老人」のキャラクターを案内役として描き、スクリーントーンを駆使して描かれた背景との、「画」と「話」と「技」のハーモニーによって、ソフトロックを思わせるグルーヴを醸し出し、読者の心に余韻を感じさせるのであった。
須藤真澄のファンタジー(幻想)短編は、 「ピュア・ファンタジー・ゾーン」から「庭先案内」を経て、「庭先塩梅」シリーズへと移り変わる中で、須藤による「画」と「話」と「技」の三要素によるハーモニーは、より洗練され、より冴えを増して、ファンタジーファンに新たな感動と新たな読者を現在も呼び寄せている。
今回、須藤のライフワーク的存在となったファンタジー短編の新シリーズ、「庭先塩梅」の開始にあたって、『庭先案内』2巻までの過去の単行本から須藤本人の作品セレクトによるベスト版が登場した。作品の中でストーリーの中核に用いられている「むすめ(少女)」と「じじばば(老人)」の各モチーフごとに分けた二巻構成で、少女を象徴する「萌葱」、老人を象徴する「梅鼠」のカラーコンセプトが取り入れられている。この二冊には、'80年代から'00年代半ばまでの、各時代の須藤ファンタジー作品が集められ、「ますび」こと須藤真澄の約20数年の歴史も味わえる逸品として、須藤ファンタジー入門編としての性格も備えている。
今回の『梅鼠』は、「ピュア・ファンタジー」や「庭先案内」の他、須藤の最初期の作品や80年代後半の少女誌掲載作もバランスよく収録されており、須藤真澄のマンガヒストリーを追体験できると同時に、須藤が捉えた、顕現化した「神」としての「じじばば」というものを感じさせてくれるベスト版になっている。
巻末には作家の有川 浩による、『梅鼠』の解説が収録されており、「むすめ」と「じじばば」を通じた、須藤の死生観についての考察が興味深い。

『梅鼠』
コンセプトカラーは日本画で使われる『梅鼠』色。「経験」と「記憶」が生み出す落ちついたイメージで、「じじばば」の先導者あるいは伝承者としての存在を神秘的に象徴している。


○「昼と夜」(『ナナカド町奇譚』より)
七つある「角」に不思議な事が起こるという町がある。この町に引っ越してきた少女「なのは」は、
七つの角の一つに当たる剥製屋を訪れる。そこには、全く同じ容姿をした老年男性の店員が待っていた。剥製という「死」を前提にした「生」の証明をモチーフに、受け継がれる生命の重みを、双子の兄弟、そして昼と夜の対比効果を用いて読者に伝えている。ここに出てくる双子の老人は、昼と夜をそれぞれ司る「神」を思わせ、明暗のコントラストが生み出す清涼感をもって、少女「なのは」と神との接触を描いている。

○「幻燈機」
 中央アジアの内陸部にあるとある地域に、一人の老人がオートバイに乗ってやってきた。彼の持つ幻燈機は海の景色を映し出し、子供達を喜ばせる。だが、この景色は、老人の息子が命を落とした場所であった。幻燈機は、老人の印象に強く焼きついた、悲しい出来事を記憶していたのだ。だが、幻灯機には滞在地で映した海を見た少女の姿が追加されていた。嬉しい出来事も幻灯機に記憶されることに老人は気付き、再び旅を続ける…。旅を続ける老人の姿には、過去の過ちに対して許しを請う人間の姿と同時に、道中で出会った人々の罪や穢れを背負って遍歴する「神」のイメージも感じられる。中央アジア内陸部の質感ある描写とトーンによる波の映像や背景の山並みが老人の心境を引き立たせていると同時に。「じじばば」のビジュアルから導き出された、須藤真澄における「神」のイメージも強調している。

○「黄金虫」
「錬金術」がこの世に存在する世界で、女子学生「木乃枝(きのえ)」は、錬金術師を目指して錬金術学校受験に望んでいた。ある日、木乃枝は突然開店した錬金術用の材料店を発見し、足を運ぶ。店には赤ん坊を抱いている老女が店番をしていた。老女は、実技試験に不安を抱く木乃枝に、自分達が心の足場になってあげると励ました…。
須藤真澄初期のファンタジー短編であり、『萌葱』&『梅鼠』収録作品の中では最初期の作品にあたる。学校生活に終わりを告げ、それぞれの進路を進む友人達との溝に悩むと同時に、新しい世界としての、自分の選んだ進路である、専門分野へ進んでいく不安を抱いた少女が、自分の"分身"に出会い、成長していく物語を、錬金術という呪術的モチーフと絡めて描いている。須藤の学生時代の経験が反映されたと思われる物語設定には、経験に裏打ちされた感覚的なリアリティが感じられると同時に、自分の過去と未来を、赤ん坊と老女のイメージに託したビジュアルは、自己の中の"神"的な存在とそれらとの対話による自己啓発を暗喩しているかのようにみられる。

○「桜風」
 満開の桜並木の下で、お笑い芸人を目指す少女は40年前、彼女が生まれる前に失踪した祖父に出会う。失踪していた祖父は、少女がラジオのお笑い番組に投稿していた事を知っていた。祖父に憧れ、この桜並木の場所でかつて祖父がしていたように、漫才のネタを考えていることを少女は祖父に話すのであった。そして、桜の花びら舞い上がる風に乗って祖父は消えていった。母親からの電話から、祖父は亡くなっていたことを少女は知るが、彼女は祖父の存在を確かなものにしたのであった。
「漫才」を通して受け継がれる、家族の心のつながりを、桜のイメージ使って効果的に表現している。祖父の実体が桜の花びらとなって風に乗っていく様子は、儚いながらも未来への希望を託された少女に決意を促しているように感じられる。横山やすしをモデルにしたと思しき祖父のキャラクターや上方漫才風の会話など、上方芸能に高い関心を寄せている須藤の嗜好が作品中に反映されていて面白い。東京の芸人が上方言葉に頼るなという祖父の台詞も、東京出身の作者の微妙な立場がみられ、なかなか興味深い。

○「ゆきあかりのよる」
 ある大雪の日、赤くてくせ毛の少女あかりは雪の精の老人に出会う。前日、あかりは友達の少女小夜とケンカしたため機嫌を悪くしていた。ケンカの原因が小夜の素直さにあったあかりは、雪の精に諭される。あかりは雪の精の”のーてんき”を分けてもらい楽しい時を過ごし、小夜と仲直りした。
モンゴメリの小説/名作アニメの『赤毛のアン』に対するオマージュも込められた、少女誌掲載作品。老人の姿で描かれる「雪の精」と少女との出会いを通して、身近な友情を再確認するという内容のストーリーで、「雪の日」を舞台にした、少女の温かい心と雪の精の優しさとはかなさが伝わってくるような一篇である。冒頭の1ページ全体にわたる、降雪の場面をはじめとする、「雪の日」の描写は、雪のイメージとして使われる”雪の結晶”のモチーフを一切使わず、肉眼で見た雪のイメージを重視しており、作品全体から冷たくも暖かい気温と、静寂さが感じられる。

○「桜東風」
老女「りう」と川の水温計りで有名な老人「江戸一」との心の交流を描く。川の水は、桜橋の下を流れる所で心を通わせるのに最適な水温になるという。須藤のホームタウンである、東京都墨田区の下町を思わせる町を舞台に、夏の日常で起った小さな出来事を描いている。超自然的なビジュアルは比較的おとなしいが、この世とあの世との境界に位置する"川"を通して、りうと江戸一との心が通い合う様子は、須藤ファンタジーらしい異界交流譚として存在感を放っている。背景を省略したコマが、夏の日の、気温が高さと爽やかな空気を感じさせる。

○「シオマネキ」
とある浜辺に半球状の建物が一つ、そこはホテル・シオマネキ。満ち潮と共に流れ着いたもの達の一時(ひととき)の宿。ある時、この浜辺に一人の老人が漂着してきた。彼はホテル・シオマネキから魂の旅路に出る―。この話では潮の流れに乗って死者の魂が流れ着くという事になっていて、その水中描写は後の『アクアリウム』へとつながっていく。また、この話が発表された時勢からか(『コミックボックス』1989年3,4月合併号掲載)、主役の老人が歴史上の著名な人物を想起させる。

○「私と彼女と洞窟で」
 女子学生は幼い頃友達と遊んだ裏山の洞窟を訪れるが、そこには祖母とその友人たちが集まっていた。そして、女子学生の幼少の頃の姿をした少女が姿を見せた。裏の家の孫が女子学生の幼少の頃に似ていたので、近所で可愛がっているのであった。 秘密基地ごっこを接点にして、祖母と孫との絆と交流を暖かく描き、優しげな印象を読後に受ける短編である。

○「今宵楽しや」
雪の日の酒屋で、酒屋の老主人は、孫の「真澄」と”座敷わらし”を呼び寄せようと、客を集めて雪見酒をする。座敷わらしと楽しい一夜を過ごす事はできるのか…。老主人と真澄の楽しそうな表情が印象に残り、「雪見酒」の楽しさに臨場感が漂っている。作品中の「座敷わらし」は、もしかして「酒の神」なのでは?などと思いたくなるイメージが、作品のコマ(シーン)一つ一つから面白く感じられる。作中に伝わる、酒屋の暖かい空気と外の冷えた空気の対比感覚が、作品の味わいを深めている。

(文中敬称略)
[PR]
by konlon | 2010-12-17 00:00 | マンガ

『萌葱』

『萌葱』
 -ますびファンタジー・ザ・ベストPart1-

    ●kongdra(空・ドラ)


 人間世界で営まれる、何気ない日常の盲点を縫うように、異界の者たちがこの人間世界に訪れる…。ファンタジーマンガ作家の須藤真澄は、異界からの来訪者に誘われて、日常から異界、そして再び日常へと帰っていく人々の小さな「物語」を、「少女」と「老人」のキャラクターを用いて叙情豊かに描き出し、それらのキャラクターとトーンワークを駆使して描かれた背景とのハーモニーによって、ソフトロック的なグルーヴを醸し出し、読者の心に余韻を感じさせるのであった。
COMIC BOXの「ピュア・ファンタジー・ゾーン」に始まる、須藤真澄のファンタジー短編は、ファンタジー作家・須藤真澄の異界観および人間観が表出された作品群として、コミックビームの「庭先案内」を経て、「庭先塩梅」シリーズが現在継続中である。
今回、須藤のライフワーク的存在となったファンタジー短編の新シリーズ、「庭先塩梅」の開始にあたって、『庭先案内』2巻までの過去の単行本から、須藤本人の作品セレクトによるベスト版が登場した。作品の中でストーリーの中核に用いられている「少女」と「老人」の各モチーフごとに分けた二巻構成で、少女を象徴する「萌葱」、老人を象徴する「梅鼠」のカラーコンセプトが取り入れられている。この二冊には、'80年代から'00年代半ばまでの、各時代の須藤ファンタジー作品が集められ、「ますび」こと須藤真澄の約20数年の歴史も味わえる逸品として、須藤ファンタジー入門編としての性格も備えている。
今回は、「むすめ(少女)」を物語の主要人物として描いた、『萌葱(もえぎ)』編収録作品の紹介をしておこう。


『萌葱』
コンセプトカラーは日本画で使われる『萌葱』色。草木が若々しく育つイメージで、「むすめ」の発展性を神秘的に象徴している、と共に昨今の「萌え」系キャラクターの存在に対する、須藤真澄のアプローチであり、回答とも考えられそうだ。

○「天国島より」
主人公の小桃(シャオタオ)は、天国島と言うべき、永遠の時を生きる人間と竜の住む島に住む少女。彼女は15歳を迎えた時に受ける「儀式」によって永遠の生命を得ることになっていた。
しかし、姉の付き添いで島の薬を市場に卸しに行った時、その市場に心を惹かれる。小桃は限りある「時間の枠」で生を過ごす市場の人々を目にし、彼らが生き生きしていたことに驚嘆した。限られた時間の中でこそ命の密度を濃くできるのではないかと言う竜の言葉に共感し、市場で暮らすことを決めたのである。不死は生きていることにならないと思う姉と、三千世界全ての空にも憧れる空がないと思う竜の下心も小桃の心を動かし、彼女に時間の枠の中から大切に思う気持ちが「天国」であると思わしめた。
異世界の掟に従って生きる事を運命付けられた少女が、人間世界に触れる事で自分の存在を振り返るというストーリーで、仙人のモチーフを取り入れた中華的イメージが神秘性を際立たせている。異界の住人視点で人間世界を客観的に見つめる設定かたは、命の密度というものを考えさせてくれる。

○「It's a small world」
 女子学生の少女が目覚めた所は、塀で囲まれた、円形の家の中だった。その部屋は可愛らしい壁紙が貼られていて、見知らぬおじさんやおばさん、老女が同居していた。
少女は戸惑うが、友人の飼っていた犬・「エダマメ」の姿を認め、家の正体と自分の状況を知るのであった。そして、ふるさとに還るための"お迎え"が塀を破って現れる。少女たち家の住人たちは"お迎え"に乗ってそれぞれのふるさとに還っていくのであった…。
人々の心の中に生き続ける"個人"をテーマにした作品であり、各人の記憶の中に「存在」として認められる人々や生き物を、"家(イエ)"のモチーフで表現している点が目新しく感じられる。巨大な提灯飾りをアオリで見せたり、"お迎え"が戦車のように塀を破って出現する超現実的なビジュアルイメージが、動的な迫力でもって静的な"家"のイメージと好対照をなしている。本作発表前に須藤の飼い猫が亡くなった経験が反映されたであろう物語設定により、"生と死"を描いてきた須藤作品の中でも特に際立った印象を与えている。
なお、It's a small worldというアトラクションがディズニーランドにあり、TDLのものが『おさんぽ大王』でも紹介されていたが、このアトラクションがタイトルの元になっていた事も推測される。

○まばたきの祭典
生き物の瞬きが、種ごとで一致する時があるという。少女は猫からその事を聞き、一千年に一度だけだという、全ての人間の瞬きが一致した瞬間を目の当たりにした。"一瞬"というものをテーマに、全人類が同時に行うという低確率の事態が招きよせる、神秘的な「異界」を空のモチーフで浮遊感豊かに描き出している。

○「天狗―あまつぎつね―」
少女は立ち入り禁止の山に足を踏み入れ、山の中で天狗に出会う。天狗は死者の魂を木の養分に変え、花を咲かせ、果実を実らせる。果実の中で育った勾玉形の種は、「この世でいちばんいいもの」だと天狗は言う…。死者の"魂"の再生を、山と樹木のモチーフで描き、『アクアリウム』に代表される水のモチーフとは違った、須藤真澄のもう一つの死生観、生命観を見ることができる。

○「メッセージ」
 妹は最近、毎晩無意識に謎のメモを残す。その謎を解き明かすため、眠っている妹を姉は見張ることとなる。そして姉は、妹の耳から"七福神"が出現するのを目撃した。海外に出ている両親へのお守りとして、姉の描いた七福神に恵比寿の絵を描き忘れたことを知らせるため、七福神は妹の夢にアクセスしたのだという。須藤が関心を寄せている、大阪を舞台にした作品であり、上方漫才を思わせる姉妹のやり取りには、姉妹の仲のよさが強調されている。この作品は上方芸能的イメージが好評だったらしく、『アクアリウム』や『振袖いちま』に続く、新たなダブル主人公ものとして、後に大阪市在住のこの姉妹が関西地方で活躍するエピソードが、「庭先」シリーズ枠内で描かれる事になる。

○「早苗と青い子供」
少女早苗は、ふとしたことから河童に出会い、「河童の国」に案内される。村の子供たちの守り神として、一人に一匹ずつ河童が生まれるのだという。河童は十年後に子供の成長を見届け、死んでいく。水中の低重力感が感じ取られる「河童の国」の描写は、後の『アクアリウム』に連なる魂の世界の一形態が描かれ、注目される。作品には透明感があふれ、自らの宿命を受け入れて生きる河童の、切なく、悟りにも似た表情が読者の心を打つ。主人公が過ごす空間として、茅葺き屋根の民家など、一昔前の農村の風景を選んだ事も、作品の透明感をいっそう際立たせている。

○「天のおさる」
 世界一高い山の頂上にある、大木に住んでいる一匹の猿が下界に降ってきた。街に出稼ぎに来ていた娘は、偶然その猿と出会う。娘は、里帰りの際、同時に猿を住処に帰すことになった。
須藤の好きな国の一つであり、数回足を運んでいるネパールをモデルにした、異国情緒豊かな短編。で作品中に登場する猿のデザインはマスコット的であり、猫のキャラクターとはまた趣の違った、須藤のたようなデフォルメ感が多分に発揮されている。

○「真夜中のみいさんはあさん」
 ある猛暑の夜、下宿の女子学生(?)は旅行のため地球に訪れた宇宙人の一団に出会う。彼等が残していったリモコンは温度調節機であり、その効力は地球全体の気候を大きく変えるほどのものであった。須藤作品には珍しい、「宇宙人」が登場する短編であるが、宇宙人の素顔を見せない点に、隠された異界というものに存在感を与えている。"熱帯夜"をモチーフにして、宇宙人と地球人との、認識のギャップが引き起こす超常現象がテンポ良く描かれていて楽しい作品である。作品中のほとんどの場面において描かれた、主人公である女子学生の体表に浮かぶ汗の表現は、彼女の肉体が感じた"湿度"というものを、須藤のキャラクターデザインによって、あまり不快になり過ぎない程度に、読者の皮膚感覚に訴えかけるようなイメージを与えている。

○「コーヒー・カンタータ」
女子学生は公園でコーヒーポットを持った男と出会う。男の注いだコーヒーを飲んだ女子学生は、男の過去と未来を目の当たりにした。男の夢の中だというそのビジョンを通じて、女子学生は現実世界で生きる意味を思うのであった…。「コーヒー」と「夢」をモチーフにして、人の一生と転生、夢の世界と現実世界との相互関係を描いている。公園ののどかな雰囲気が、作中のコーヒーに味覚を感じさせ、作品世界への導入役として機能している点が興味深い。

○「天国のつづき」
「天国島より」の続編。この「天国のつづき」では、一歩進んで島の住人と島外の人々とのつながりが描かれている。小桃は島の薬を卸している漢方薬店で暮らすことになった。漢方薬店の主人は、島の長老格である「爺爺さま」をルーツに持つという。「つづき」では、人間は限りある時間の枠を、血族や大切に思う人たちとのつながりの中で重ねあって永遠の時間を紡ぎだしている事を主張している。難点を言うなら、読切短編のためか、作品世界での重要事項が、姉さんの台詞で表されているので、やや説教じみた感じを禁じえない。
永遠の時間を生きる「天国島」の住人の存在意味は何かと考えるにあたって、爺爺さまが神の位に昇格しようとしていた事や、爺爺さまと薬屋が重要な手掛かりではないかと思われる。また、爺爺さま一族の一部が島を離れた理由も、小桃のように限りある時間の枠に心を惹かれたからであろうと想像させられる。須藤真澄のファンタジー系短編作品は、絵を見て感じる、と言う点が強く、言葉での表現がたいへん難しいが、そこに須藤ファンタジーの真髄があるといえるのではないかと考えられる。

(文中敬称略)
[PR]
by konlon | 2010-12-16 00:00 | マンガ

仏教に萌えられるか!?

先ほど、杜康潤(とこう じゅん)著のエッセイマンガ・『坊主DAYS』が発刊された。作者の兄が臨済宗(禅宗)の住職という事で、兄をめぐる仏教・僧侶絡みの出来事を綴った作品であるという。このブログでも寺院関係について、「萌え系」の看板寺院禅宗解説書提案の記事を発表して、日本仏教や僧侶に対するポジティブな認識がなされることを強く希望しているが、今回仏教(禅宗)関係についての、学習漫画的なものではないマンガ本の刊行は、日本仏教に対する再認識の機会を提供するものとして、大いに歓迎したい。日本国内における、プロフェッショナルを極めた世界の中で、自衛隊と並んで「ダサくて閉鎖的」といわれ、あるいは、古くから批判の対象となった「異世界の人」という認識が強かった日本仏教の僧侶について、日常に近い存在として、この作品が考え直す機会となることを密かに願っている次第である。作者の身内が禅宗系であるため、作品内容に禅宗系の紹介的要素も含んでしまったが、この事は、マンガファンたちに対する、禅宗への関心を高める契機としてのコンテンツ登場として歓迎すべき事であると同時に、日本仏教イコール禅の紋切り型イメージの強化という危惧も含まれているのではないかと思われる。日本仏教には多くの宗派が存在し、どれもが日本人の精神性に大きく関わっている事を考えると、少々疑問に感じる点もある。日本仏教や宗教家を題材とした作品を創るに当たって、密教系や念仏系、日蓮宗など日本仏教の他宗派に対する関心も向けられるべきであろう。(萌え看板の了法寺は日蓮宗寺院であるが、なぜ禅宗系寺院から萌えキャラ採用が始まらなかったのか、『坊主DAYS』がなぜ女性向けコミックスの新書館から刊行されたのか、これらの点も熟考すべきかもしれない)だが、国防や国際支援と同様に、日本人の宗教観を通じた精神性について、アニメ・マンガを生活の一部としている若年層の人々が、それを客観的に顧みるきっかけがわずかながらを登場したということで、この作品は重要なものとして位置付けられるのではないかと考えられるのである。
日本の伝統宗教が若年層へ継承・発展していくため、「萌え」と「煩悩」とは別のものであるというようなロジックを禅宗、いや日本仏教側から主張できるか、ということが今後の課題として重要になるのではないかと推測される。若い僧侶たちが美少女キャラについて語り合い、キャラグッズを集め、あるいは萌え絵師として活動し、痛車を乗り回す、ということが自然に受け入れられる社会の実現というものも、日本的宗教の今後の発展につながるのではないかと密かに考える次第である。
[PR]
by konlon | 2010-02-05 02:08 | マンガ
富沢ひとし先生作のマンガである『エイリアン9』および同作品のアニメ版、あるいは富沢先生の作品のファンサイトを紹介していたサイト・「エイリアン9プラネット」が09年10月16日を以って閉鎖される事となった。『A9』がマンガ読み達の間で話題になった頃に、内容の濃いサイトが相当数出現したが、その後、消滅や縮小などを経ているとはいえ「エイリアン9プラネット」を見る限り、相当な数が揃っていたように感じられた。「エイリアン9プラネット」には、現在存在する『エイリアン9』(以後『A9』)のファンサイトへのリンクが集められていて、『A9』や富沢作品のファンたちがネット上で楽しむための案内役となっていただけに残念な事だと思う。そこで、『A9』や富沢作品に感心を持っている方たちの参考として、現在当方で存在が確認される『A9』や富沢作品ファンの持つサイトやブログを以下に挙げてみる事にする。『A9』のファンサイトの特徴としては、『A9』がマンガ読みたちの間で話題になり、OVAが製作された'99~'01年あたりがファンサイト開設の、最初のピークであると考えられ、ファンたちが『A9』の設定を用いて、独自でエイリアン対策係を立ち上げた「ぱらきゅう」の発表が一つの傾向であった。現在もその当時に開設されたいくつかのサイトが、アクセス可能となっているので、『A9』や富沢作品に興味を持たれたら一度訪ねてみるのも楽しみであろう。
(サイトによっては、現在は更新が停滞あるいは閲覧不能ですが、以前にまとまった形でのファンコンテンツを有していたものも含まれていますので、その点はご了承ください)


 まずは原作者
富沢ひとし先生HP・「Flog StarShip

 ぱらきゅう関連を現在含むサイト

デュマ:「迷子のモグラHP」(残念ながら現在アクセス不能 2010,05,22)

雅(みやび)&芳岡一之:「東横うにうに」

ラヂオヘッド:「第9小学校

ゆざいちょ:「遊財町

うみ:「しっぽ番長

ぽぽ:「ないん開拓記

HTTP Error 301:「Page moved permanently」(残念ながら現在アクセス不能 2012,09,09)

JIN:「KIR ROYAL

 A9/富沢作品ファン画像系サイト

タカミ:「小惑星の隅で

k5:「A9-activity

みなみ:「こどものラクガキ帳」(現pixiv移動

デズモンド:「まんまる日和

蛸山 涼: 「 タコブネ芸術館新館

39(ミック):「39番地仮設地

wabill:「完全宇宙」(残念ながら現在アクセス不能 2010,06,06)

ゆう:「ぷらすてぃか」(残念ながら現在アクセス不能 2010,06,06)

 テキスト、レビュー系主体

カルネアデス:「カルネデアスの頁

まんりき:「まんりきの積ん録アニメ大王
[PR]
by konlon | 2009-10-19 00:00 | マンガ

『エイリアン9』誕生10周年についてのイロイロ

    ●kongdra(空・ドラ)

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

昨年の6月は、1998年6月に富沢ひとし作『エイリアン9』が『ヤングチャンピオン』に連載されてちょうど10年目であった。このことから、ささやかながらもこのブログにおいて『エイリアン9』誕生10周年企画として、単行本化された作品の内容紹介とレビューを掲載させていただいた。その後、エイリアン9や富沢作品の関連のファンサイトやブログでも何か10周年記念の企画が出てきてもいいかなと思っていたのだが、今のところ目立った動きがないのが少々残念に感じる。独特の作品イメージからくるある種のマニアック性からか、多少抑え気味になってしまうのだろうか…。マンガの連載は1999年8月までなので、まだ少しは間に合うだろうから、今年の8月あたりまでに何か動きがあれば、ファンとしても嬉しいと思うのだが。6月に出た『カオスアニメ大全』でアニメ(OVA)版『エイリアン9』が紹介されていたが、そこでは原作に由来する『エイリアン9』(以下『A9』)の作品に漂うアンビエントイメージに見られる、「少女」に対する「好み」というものの一型式に焦点を置いており、アニメ版における、『A9』の原作イメージの増補強化という面がクローズアップされている。しかし、これは『A9』に対する見解の一つでしかなく、連載や単行本、アニメ版、あるいはファンサイトなどのさまざまなメディアで『A9』に接して魅力を感じた者一人一人が作品から「何か」を感じ、影響を受けているはずである。単行本(YCコミックス3巻本版)1巻カバーの「世界ノ見方は一つDEはない」にもあるように、読者ごとの『A9』観は(好意的にしても否定的にしても。ファンにとっては、できれば好意的なものであって欲しいのは人情だけど…)多種多様であるはずである。既存のレビューに左右されず、本当に好きと思うなら自分で考え、よく行動していきたいものである。
 私も8月末までに、もう少し何かできればいいかなと思っているこの頃。

(そんな事で、『エイリアン9』10周年記念企画を考えてみました。
詳しくはこちら
[PR]
by konlon | 2009-07-15 23:42 | マンガ

『電脳コイル The Comics』

『電脳コイル The Comics』 
 -電脳世界のアナザーヴァージョン?-

    ●kongdra(空・ドラ)

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


 彗星のごとく視聴者の眼前に出現したTVアニメ・『電脳コイル』は、2007年5月に放送開始されるとその衝撃的なビジュアルイメージで視聴者を魅了し、言葉にはできないような感動を与えたのであった。日常とハイテクがあたりまえのように混ざり合った空間の中で、子供たちがメガネ型小型コンピュータを身に着けて遊ぶ時代を舞台に、CG時代の申し子のような”電脳”キャラクターたちが、新時代の妖怪として存在し、彼らと人間との共存を主要テーマとしたストーリーが展開された。アニメ本編は、二人の少女・「ヤサコ」と「イサコ」を中心に、人間世界と”電脳”技術との狭間に揺れ動く人々の姿が「ミチコさん」や「アッチの世界」といった不気味な都市伝説を絡めて描かれ、少女たちは電脳メガネに関わる怪現象を通じて自分の進むべき道を見出していく…。磯光雄原作・監督作『電脳コイル』は、電子科学と人間の心が交錯する迫真のドラマによって、新たなる伝奇ファンタジーを誕生させた。この『電脳コイル』(以後『コイル』)が放送されたとき、メディアミックス化の一端として、脚本家の宮村・優子(ここでは便宜上この表記にする)による小説版シリーズの刊行が始まったのだが、当然その次にはマンガ版が出るだろうと『コイル』に魅せられた視聴者の”僕ら”は予想した。6月頃になって、予想通りマンガ版の発表がアナウンスされたのだが、それは僕らの予想もしなかった形での登場であった。「久世みずき」の作画によるものであり、小学館の少女向けマンガ雑誌『ちゃお』8月号の付録冊子の形式で発表されたのである。徳間書店で近年復活したばかりの『リュウ』に連載されるものであろうと一部の者は予想していた事もあって、、アナウンス当時は実に失礼ながら「ええっ、何故少女誌に!?」、「久世みずき」って何もの?と驚き困惑した青少年は数多くいたに違いない。それでも『コイル』の魅惑の世界に心を引かれていた者たち(?)は少女誌という媒体に秘められたある種の可能性に期待しながら、密かに入手の決意を固めていた…(?)。こうして7月に『ちゃお8月号』が発売され、万難を乗り越えて冊子を手にした者たち(?)は、アニメ以上の軽快なテンポと夏の熱気に澄み渡る風のような爽やかな空気をマンガのコマから感じ取り、これもらしくていいのかも、というような気にさせられるのであった。その後、単行本が出るらしいという情報を得た彼(女)たち(?)は、そこに収録されるであろう続きの話に期待を寄せ、11月に期待の単行本が発売されると若者たち(?)は自然とその単行本を手にする事になった…。単行本には、付録冊子の内容に加え新作画の第二話が掲載されていて、第一話では未登場だった待望の「オバちゃん」も活躍し、ストーリー展開もまた、TVアニメの「アッチの世界」を髣髴とさせる「電脳大黒市」が物語の舞台となり、彼(女)たち(?)は甘酸っぱくて切なさを感じる物語空間に思わず引き込まれた。ああ、これも『コイル』のアナザーヴァージョンなのだなぁ、と。こうして僕たち(?)は、少女誌という新たな切り口、新たなフィルターを通して『コイル』の魅力を再発見するのであった…。
 久世みずき作のマンガ版『電脳コイル』は、電脳メガネや電脳ペットなど、大体の世界設定とキャラクターはアニメに準じたものであるが、ストーリーやキャラクターデザインなど少女誌向けのアレンジが加えられているためか、少女たちの学校生活に重点を置いているところが大きな特徴になっている。第一話は、TV版同様「ヤサコ」と「イサコ」の物語であり、アニメ本編でも登場した「ミチコさん」をめぐる展開であるが、「イマーゴ」などといったTV版で取り上げられていた「謎」の要素を抑え、「ヤサコ」と「イサコ」の対立と和解を際立たせることで、主要な読者層の大きな関心ごとである、「友情」が強調されている。少女ヤサコとイサコのキャラクター設定は、TV版本編にほぼ準じたものになっているが、イサコの行動原理は、TV版の複雑な背景事情を見直して、手にした者の願いをかなえるという「ミチコさん」による両親の和解とすることにより、TV版以上にヤサコとイサコの心の交流が明確になっている。続く第二話では、電脳空間に出現した「イリーガル」捕獲を発端にした事件を通じてストーリーが展開される。もう一人の主要人物「ハラケン」こと原川研一と彼の友人であり、電脳関連の事件で死亡した少女「カンナ」との交流がストーリーの主軸となり、TV版にも登場した「電脳空間」や「電脳体」が主要モチーフとして取り上げられている。「ヤサコ」と「イサコ」の物語は第一話において一応の解決をみせているので、この第二話は、TV版で描かれていた「ヤサコ」と「ハラケン」の物語という面が強調されている。TV版のような複雑な背後関係が見られない分、TV版以上に「生」と「死」や「現実世界で生きる意味」といったテーマがよりダイレクトに読者に提示される。
『電脳コイル』の持つ魅力を、少女ものという場において新たなビジュアルで展開した久世みずき版『電脳コイル』は、TVシリーズ以上に主要テーマの一つである、少年少女たちの「出会い」と「別れ」を叙情的かつ簡潔に描き、『コイル』の持つファンタジー性がより強調されている。このマンガ版『コイル』は、少女層を対象とすることで、原作者・磯光雄の多様な想像力を、作中の主人公と同じ位置から捉え直した作品であり、『コイル』世界へのもう一つのアプローチを提示した作品といえるだろう。
                                              (文中敬称略)

作品:『電脳コイル』 THE COMICS 
磯光雄/徳間書店/電脳コイル政策委員会 原作
久世みずき 漫画 
2008年11月、小学館 

                          
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
 後記:
 大幅に遅れてしまいましたが、4月からNHKBSで『電脳コイル』が再放送されるということなので、今回はマンガ版『電脳コイル』の雑感雑記です。マンガ版発表当時、少女誌掲載と聞いてかなり驚きましたが、改めて内容を見ると、主人公が少女ということもあってか、作品中の登場人物たちと少女層の読者と目線が合っているような印象がしました。少女の出会いと別れを主要テーマとした『コイル』には案外少女誌が似合っているのではないのかなあ、という気がします。『コイル』が少女誌を選んだ理由もこのようなところに隠されているのかもしれません。「イマーゴ」や「イサコのお兄ちゃん」、「コイルドメイン」といった細かな謎を省いたストレートな展開は、『コイル』の本体というものが顕わになったかのような不思議な感じがします。そして、TVシリーズ以上に、テクノロジーで彩られたファンタジーものという面が強調されていたことも作品により楽しさを与えていました。また、マンガ本編で「ミチコさん」として使われていた電脳生物などの、アニメ版企画時の初期設定が生かされたキャラクターたちの登場も『コイル』ファンにとっては楽しみでしょう。少女誌マンガ版により、『電脳コイル』の魅力がいっそう人々に伝わっていくことを願っています。

 
                     2009.04.29 kongdra

              発行:空琉総合研究所 2009 禁無断転載
      
                   2009 kongdra/空琉総合研究所
[PR]
by konlon | 2009-04-29 13:01 | マンガ

『たばこ屋の娘』

『たばこ屋の娘』
 ─元祖"劇画"の到達点─
            ●空ドラ
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
○'70年代の松本正彦作品
 日本マンガの黎明期に松本正彦が提唱した"駒画"は、マンガ作品において、物語中で流れる時間を、コマの連続を使って表現した作品形態であり、マンガえお進化発展させようとした松本の試みであった。のちに駒画は、松本と同様に、新たなマンガ像を追求する辰巳ヨシヒロの"劇画"と接近・融合し、'50年代~'60年代の貸本マンガ界を発展させる原動力となった。貸本時代の松本は、推理ものを中心に劇画分野で作家活動を行ってきたが、劇画は躍進、進化するものだという松本の理念(*1)と、貸本から雑誌へと発表媒体が変化していったことによる、マンガ読者の多様化への対応からか、松本は週刊マンガ誌が登場してきた'60年代半ばより、児童向けや青年向けの作品を発表するようになった。後に'90年代の再評価によって脚光を浴びることになった松本作の児童向けギャグ『パンダラブー』は、その頃発表された松本の作品のひとつであるが、同時期に松本は、一般市民の生活空間中に埋もれた、若い男女の日常生活を描いた短編作品を青年誌上で発表している。これら'70年代前半に製作された、松本のマンガ作品(*2)は、赤塚不二夫のギャグマンガに登場するキャラクターを参考にしたとされるデザインのキャラクターが登場するものの、赤塚キャラのような半ば規格化されたデザインとは違って、形状や線描に統一感を持っていない。だが、それら赤塚デザインを独自解釈したようなキャラクター描写により、やや地味で暗いムードが作品世界に漂っていながらも、その中でキャラクターたちが見せる各々の心理が感情豊かに表されている。そして彼らが過ごす日常生活の中に起こった小さな事件を描くことによって、人間の生活感覚というものを読者に容易に浸透させることを実現している。
 『パンダラブー』紹介により、松本作品再評価の先駆となった大西昇平及び劇画史研究会(斧田小主催)は、マンガ史の中で他種多様な作品を著した作家である松本の、『パンダラ』とは違った一面を紹介するため『パンダラ』と同時期に発表された青年向けの短編を集め、短編集『たばこ屋の娘』として刊行することを計画した。(*3)『たばこ屋』は、表題作を始め、'70年代に青年誌上で発表された作品を五編収録した作品集であり、幼年向けとして企画された『パンダラ』だけでは味わうことのできない、松本正彦の作家としての多様な表現力が味わえる。なお、この短編集は刊行直前の2005年2月に松本が病没したため、当書には追悼企画的な性格も加わることとなった。


○"あの頃"の空気

 『たばこ屋』の収録作品には、木造のアパートがまだ集合住宅の主流であった'70年代初めの時代を物語の舞台として、汚れた味気ない部屋で過ごしている、目立った特徴もなく、存在の薄い青年と彼らが関ることとなる女性が主役になっている。物語の展開には大きな変化が見られず、何ともいえないような"ユルい"日常が描かれている。このような叙情性を持った話は際立った"見せ場"を持たないため、見た目の派手さを求めるマンガ雑誌の作品掲載傾向の下ではどうしても地味な印象しか受けないが、作者の叙情志向を作品の描写から求めようとする読者にとって、関心を引き付けやすい内容である。松本は『パンダラブー』のキャラクターデザインを踏襲した、抽象の度合いが強いデザインの人物と、版画を思わせる、線描を多用した背景を描写し、またコマ中の擬音を過剰な大きさにせず、素朴なイメージで表すことによって、突き放したような空気の閑素さを物語空間内に再現している。これにより、物語の舞台となる、都会の片隅や海辺の町から流れている空気の温度や匂い、音が視覚イメージに変換され、これらの作品は1970年代当時の、日本の様子を空気ごと読者に伝えることとなった。それは写真や映画フィルムなどの視覚媒体や、解説書や体験記などの記述媒体、録音テープやレコードなどの映像・録音媒体とはまた違った「マンガ」形式の表現形態による、1970年代の"あの頃"の様子を読者各自のイメージ中で可能な限り"復元"させる手掛かりとなるであろう。
 『たばこ屋の娘』収録の諸作品には長髪、ジーパン姿の若者達と寂れた街角が多く描かれており、'70年代のテレビドラマの場面を連想させる。松本の描くマンガとしての、それらの描写には、衝撃的な事件の起こらない、何気ない"日常"を話の中心とした、そこに潜む人々の、静かながらも確かな"生"の活力が感じ取られる。松本正彦とその作品は、近年の『パンダラブー』再評価によって若年層にも知名度が上がったが、復刻された『パンダラブー』の印象が強すぎたたことに加えて、掲載雑誌や単行本の入手が困難であり、復刻版も出ていないため、松本作品を眼にする機会が非常に少なく、今日の松本作品に対する正当な評価はほとんどされていないと思われる。そのような状況を鑑み、松本正彦の作品を発掘・復刻すべく努力した大西祥平と斧田小の二人の活動は評価されるべきであろう。松本は2005年年2月に逝去したが、今後も松本の作品が多くの人々に読まれ、松本の目指したマンガ/劇画の理念が人々に永遠に受け継がれることを期待するものである。

○収録作品
                                
●たばこ屋の娘
 女性とは縁が薄く、女性との付き合いが下手な青年は、たばこ屋の店先で見かけた、たばこ屋の若い娘が気になり、娘を見るためだけに、吸いもしないたばこを買い続けていた。そのことを聞いた先輩は、欲求不満の解消には、まず娘の手を握ってみろとアドバイスする。アパートの階段から転落した青年の見舞いに彼の部屋を訪れた、隣室の女性・寺沢の手を青年は偶然握ることとなったが、彼は性的興奮の異様な感覚に襲われ、興奮の頂点に達してしまう。その後、青年は先輩に相談し、寺沢の部屋を尋ねるが、寺沢はすでに引っ越しており部屋には不在であった。切ない現実を味わった青年は、再びたばこ屋に通うが、あの時の事を思い出しながらたばこの箱を握るのであった…。1937年(昭和12年)の流行歌で、平井英子と岸井明が唄った「たばこ屋の娘」を連想させるストーリーであるが、歌詞とは違って本編では、出会った二人は両思いになることはなく、現実のやるせなさを漂わせながら物語の幕を閉じる。部屋の中での、青年の足の動きを残像の連続で見せたり、青年の性的興奮の絶頂を、倒れた瓶からこぼれるミルクの絵で示したりするビジュアルイメージ重視の表現が、若さや未熟さからくる、青年の不安定な心理が作品中に巧みに組み込まれており、青年が感じる不安と興奮、その後の罪悪感の混じった切ない心境の表現に効果を持たせている。

●鶴巻鳴子の恋人
 「鶴巻鳴子」は失業中の恋人・「左」さん(哲ちゃん)を励まし、彼の求職に協力する。「左」の側にはどこからか犬がついてきて、彼の部屋に住み着くようになった。便器代わりに「左」の部屋に老いてあったドンブリを洗ってからは、犬はドンブリを捜そうと円周を描くように走り回るようになった。「鳴子」は犬の挙動に左の姿を重ね合わせていた。不可解な挙動を見かねた「左」の大家は、犬を自分の部屋で引き取るが、犬は相変わらず円周を描きながら走っていた…。さえない「左」の不安定な心理が、彼についてきた犬の動作で表現され、物語後半での雨の場面とあいまって湿った冷気を感じさせるような、寂しさのある空気を創りだしている。

●コーヒーの味
 「チーちゃん」は実家から見合いの話が出ているが、青年「つんちゃん」に思いを寄せている。「つんちゃん」の家を訪ねた「チーちゃん」は「つんちゃん」の弟二人になつかれる。「つんちゃん」の家には彼の兄弟三人と彼らの父親(?)が暮らしていた。幼い弟達のいる、"父子家庭"での母親役になろうと、「チーちゃん」は「つんちゃん」との結婚を決めようとしていた。
 家族を主題にした作品であり、「チーちゃん」の「つんちゃん」に対する思いが、彼女が入れるコーヒーと砂糖を使って暗喩的に表現されている。また、物語の主要な舞台となる、「チーちゃん」のアパートとそこで出るケーキや隣室のおばさん、「つんちゃん」の家とそこで出る焼き芋や彼の弟達といった対比された描写も作品にアクセントを付け、二人の思いとその動きを効果的に演出している。

●赤いキッス
 青年「朝沼」は洗っていないサルマタを押入にためこんでいたため、恥ずかしさを感じて人前で押入を開けられなかった。「朝沼」の隣室には「昭子」とその娘「マミ」が住んでいた。「昭子」は夫に捨てられたと、「浅沼」は思っている。「朝沼」はいつしか「マミ」になつかれ、それが縁で「昭子」と知り合う。親しさを増していった「朝沼」達三人は、動物園に出掛け、家族気分で楽しいひと時を過ごす。動物園から帰った日の晩、「昭子」は「朝沼」の部屋を尋ねるが、「朝沼」は例の押入を開けようとした「昭子」を引き止めようとした。その弾みで「朝沼」は「昭子」抱き寄せ、口付けする。その後、「昭子」の夫が帰ってきて、彼女の家庭生活が再び始まった。「朝沼」の淡く切ない時間は、アパートを通り掛かったチンドン屋の笛や太鼓の音に乗るかのように終わりを告げた。切なさを胸に秘め、「昭子」達との夢のような日々を思い出しながら、「朝沼」は今まで押入にたまっていたサルマタを洗うのであった。本作のタイトル「赤いキッス」は1973当時の流行歌であったカゴメケチャップCMソング・「赤いキッス」から取られている。「赤いキッス」のモチーフが作品を構成するイメージとして用いられ、作中でも「朝沼」や彼の友人「串木」が作中で唄っていて、作品にメロディ感と軽快さをも持たせている(*4)。

●どこかへ
 金谷と別れた「ケーコ」は、店の主人とケンカして店を飛び出した。「ケーコ」は、パン屋の二階にあるアパートに住む「杉山」のもとに身を寄せる。しかし、「杉山」のアパートは水洗便所設置のため家賃が値上がりしたため、「杉山」と「ケーコ」は新しい部屋探しを始める。そんな中、ふと線路を走りゆく電車を目にした「ケーコ」は「杉山」を誘って、目的地を決めずに、運賃が許す限り遠くの駅まで電車に乗って行く。駅を出た二人は、海辺の町を歩く。途中で出会った老漁師の家で世話になった後、「ケーコ」と「杉山」は、夕日が傾く町を再びあてもなく歩く。前半での都会から後半の海辺町へと対照的に転換していく場面展開は、沈滞から微かながらも前進へと向かおうとする、主役二人の心境の変化を作品に暗示している。同時に、老漁師にライターでたばこの火を貸そうとするす「杉山」に対して、ガスがないと火が付かないような不便なものなんかいらないと自分のマッチで火を付ける老漁師の姿と、それに続いて、終盤でガス切れのライターに代わって「ケーコ」がマッチの火を貸す展開が読者に強い印象を受ける。本短篇集の最後にたばこ絡みの話を置いた編集者の編集感覚も興味深い。

                                                 (文中敬称略)


*1:松本正彦「松本正彦インタビュー」2005年1月24日、編集部(松本正彦長 
  男・松本知彦協力)  
  『たばこ屋の娘』復刻版所収 2005年2月、劇画史研究会 ひよこ書房
*2:前掲書 松本によると、松本は実在しないような、コミカルな造形で描か
  れ、大げさにシンボライズされたキャラクターが登場する、非現実的なス
  トーリーで構成された作品を「マンガ」と考えていたようである。
*3:前掲書掲載の、編集部解説による。
*4:阿久 悠作詞、小林亜星作曲 はしだのりひこ&エンドレス歌唱。物語始め
  で浅沼を訪ねてきた串木が唄い、中盤の浅沼と昭子との口付けの場面に連
  なる複線となっている。
  また、物語最後でサルマタを干す「浅沼」が唄う中、窓から干してあった
  赤いサルマタが串木の顔に当たる場面の複線ともなっており。軽い笑いを
  誘う。

 作品: 70年代短編傑作集『たばこ屋の娘』復刻版 私家版単行本全1巻
      限定500部 劇画史研究会/ひよこ書房発行

      2005年2月26日に中野の書店「タコシェ」の店頭&HP通販、ヒバリヤ書店・本店
      (東大阪市)でも文芸書コーナーで販売されていた。             
                                  
                         
                                
[PR]
by konlon | 2008-11-09 12:20 | マンガ

『パンダラブー』

『パンダラブー』 ―知られざる不思議世界―
            ●空・ドラ

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

 ○パンダラブーとは
 松本正彦作の『パンダラブー』は、1972年より始まった第一次パンダブームに便乗する形で、1973年4月に貸本系のひばり書房から発行された全一巻の描き下ろしマンガ単行本である。ブタ状の鼻を持ち、二足歩行して関西弁を話すパンダ形生き物の「パンダラブー」が街中で騒ぎを起こすという内容のギャグ作品である。作者の松本正彦は、50年代の貸本マンガ誌『影』をはじめとする貸本マンガ界で活躍していた作家で、劇画グループ「劇画工房」にて辰巳ヨシヒロ、さいとう・たかを達と並ぶ人気作家であった。松本は作家自身の内的な時間を、音とテンポを感じさせるコマの運びで表現する方法を開発し、その方法論を、「駒画」という名で提唱した。同時期に提唱された辰巳ヨシヒロの「劇画」との対立、そして統合から「駒画」という語は姿を消したが、作家たちの方向性の違いにより、「劇画工房」は消滅することとなった。その後、マンガ界のメディア媒体が、貸本から週間マンガ誌に移行していった60年代後半になると、松本は、「ヘソゴマくん」等のギャグものやアダルトものも手がけるようになり、その中で『パンダラブー』が生み出されることとなる。『パンダラブー』(以後『パンダラ』)は、73年当時には衰退していた貸本系出版社からの出版物だったため、発行部数は少数で、ヒットには至らなかった。しかし1990年代初頭になって、大西祥平が単行本を古書店で発見し、作品の新たな面白さを感じた彼によって紹介されると、『パンダラ』に対する関心は貸本・劇画を知らない若年層の間で高まり、2000年には私家版の復刻版が発行され、2001年の『VOWでんがな』(宝島社)での1エピソード掲載を経て、2002年に松本正彦自身による”新作”を追加した、復刻単行本が青林工藝舎より発売された。

○謎の不思議世界
『パンダラ』本編は、何の前触れもなく、町を歩いている場面のコマから始まり、その後のストーリー展開の中で素性が判明することなく、「ケータ」少年や少女「ルミ子」や「ブス子」、ケータたちの通う学校の先生である、「スキ田先生」や「大口カバ子先生」、そして赤塚不二夫マンガに登場する目玉つながりの警官を思わせる「本官さん」などといった町の人々とからんで、さまざまな騒動を引き起こす。ケータのガールフレンド・ルミ子の誕生パーティーに強引に参加したり、人の役に立とうと思い立って、勝手に工事現場を畑にしたりする等、ストーリーには仕掛けも緊張感もなく、登場キャラクター達は謎だらけのまま、各自の感情の赴くままにストーリーを展開させる。復刻版単行本に所収されている、大西祥平の解説にあるように、『パンダラ』の作品世界は、彼らの登場理由や目的、状況説明もなく、存在意味すら不明であり、まさに不思議な不条理世界である。しかしながら、『パンダラ』は、その不条理さを読者に考えさせる隙を与えず、読者を得体の知れない、浮遊感に満ちた異空間に誘っている。『パンダラ』の生み出す異空間は、まとまりのつかない、不安定な線で描かれたキャラクター達が各自の感情のままに行動している所から生み出されているのだろう。加えて、クォータービュー(斜め角度の視点から見た景色)を多用して描かれた作品発表時の街頭イメージである、'60年代~'70年代の街を描いた背景も、浮遊感漂う異空間を演出している。『パンダラ』の面白さは、その異空間が、読者にマンガという読み物を「感じる」楽しみを
存分に味わせてくれるからではないかと思われる。(*2)パンダラを初めとする各キャラクター達が、自身の感情をありのままに表に出している所に『パンダラ』というマンガの最大の面白さが秘められているのであろう。例えば、パンダラが、道に落ちている100円玉を見て、飛び上がって喜ぶ様子などは、今のマンガでは見られないストレートな感情表現で、非常に印象的な場面である。それにしても、復刻版で”新作”が登場するとは予想もしてみなかったことであった。作品の雰囲気が、オリジナル版そのままで、30数年の時間を感じさせない所がちょっとした驚きであった。(これが松本の最末期のマンガ作品となり、一種の記念碑的存在となったことは、実に印象深い。)

○意識下の確かな技術が呼ぶ感覚
 『パンダラ』は、作者の松本正彦自身あまり覚えがなかった、と述べている。注文に応じて、不慣れなギャグマンガを描いた、やけくそ気味の、やっつけ仕事的作品であったというのである。その点から大西は、『パンダラ』の核心は「自意識」の無さにあると指摘した。市場に出回っているマンガには、作者及び編集者の意図が自意識として反映されるが、『パンダラ』は実力派といわれている作家のやっつけ仕事であり、作品が打ちっ放し的な出版であったため、キャラクター描写や背景描写などで構築されるマンガのデザインに、作者の潜在的なデザイン感覚が無意識に反映され、作品から作者及び編集者の意図が見られなくなっているのである。その結果、作中のキャラクターたちが製作者の意図から開放され、自意識を失うことになった。それが『パンダラ』の面白さであると大西は主張した。その点からみて、『パンダラ』の異世界は、貸本劇画で培った確かな技術が、作者にとって不本意ともいえる注文を受けても、なんとか形にしてみせようとする、一種のプロ根性とでもいうべき作家の信条下において、無意識の画才が発揮された結果の産物であったといえるであろう。これが読者の心にマンガの持つ楽しさを”感じ”させてくれるのかもしれない。この『パンダラ』を見て、松本正彦先生とその作品について感心を持った方がもっと多く現れ、貸本劇画時代の主要作家である松本正彦の再評価がこれを機会に行われることを期待する次第である。




作品:『パンダラブー』  オリジナル版  1973年4月、ひばり書房
               復刻新版  2002年9月、青林工藝舎 


*1:
松本正彦の劇画工房参加に伴い、「駒画」の語は消えたが、「駒画」の概念は、劇画の構成要素として継続された。(復刻版『パンダラブー』所収・松本正彦先生インビュー)

*2:
『パンダラ』では、読者は作中の「謎」について考える余地がなく、作品の中に見られる「現象」のみに心を引かれたように思われる。読者に強烈な印象を与えるパワーのある絵を持った作品では、物語の「謎」というものは作品を読む楽しみを阻害するものではない事を『パンダラ』は示しているといえる。
                                   
             
                                   
                           (文中敬称略)

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

                     2008.10.6 空・ドラ

              発行:空琉総合研究所 2008 禁無断転載
      
                   2008 kongdra/空琉総合研究所
 
[PR]
by konlon | 2008-10-07 00:48 | マンガ

『プロペラ天国』 

『プロペラ天国』 ―回転と推進―
              ●空ドラ

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
 ○恋愛探偵組
 現代か未来か分からぬ時代、この世には「普通人間」と「合成人間」の二種類の人間が存在していた。中学生の姉妹、桜田子糸と子鐘は、生徒の相談に応じる私設サークル「恋愛探偵組」を作り、活動を開始した。子鐘が気弱な姉を強くしようと謎の手帳「恋愛探偵組白書」をヒントにサ-クルを作ったのである。だが、子糸は合成人間であったため、調査対象となった他の合成人間たちに狙われる事になる…
 以上が富沢ひとし作『プロペラ天国』(以後『プロペラ』)の1~3話までのストーリー展開である。合成人間である子糸が自分以外の合成人間を敵に回して、普通人間のために戦うようなストーリー設定は『人造人間キカイダー』等の変身ヒーローものを連想させ、戦いの決着をつけるのが妹の子鐘であるというキャラクター設定は、1972年放映の特撮TVシリーズ、『アイアンキング』を髣髴とさせた。『アイアンキング』は静弦太郎と霧島五郎の二人が主役であるが、敵の巨大ロボットに止めを刺すのは、変身時間1分のアイアンキングに変身・巨大化する五郎ではなく、弦太郎の体力知力であった。『プロペラ』も敵の合成人間との戦いは、子鐘の体力知力が決め手になるのではないかと予想された。こうして、『プロペラ』は、桜田姉妹の掛け合いが楽しい学園アクションものとして、ストーリーが進行するのではないかという予感を感じさせた。しかし、4話以降、ストーリーは「恋愛探偵組白書」を軸にして、子糸・子鐘姉妹と合成人間との戦いが本格化する。校舎に隠されていたプロペラ付きの”戦闘型”合成人間が起動し、学校中の人々が記憶を操作される。子鐘もこれまでの記憶を消去され、子糸の性格はこれまでの「情けない」性格から「意地悪な」性格に変更された。子鐘は毎日のように繰り返される子糸の乱暴な振舞いに悩まされるようになった。小鐘は、子糸の優しさを取り戻そうと文通相手のペンネーム・「ラブラブ」から送られた本、「恋愛探偵組白書」の記事を参考にして、「恋愛探偵組」を再び作ろうとするが、これに気付いた子糸によって自室の衣装ケースに閉じ込められてしまう。だが、子鐘が閉じ込まれている間に戦闘型合成人間が活動を開始した。子鐘は文通相手の少年「ラブラブ」に助けられ、事情を知る。彼によると、「恋愛探偵組白書」は世界の動きを決める「シナリオ」であり、人々はそのシナリオに従って行動しているのだという。だが、シナリオでは合成人間は、最後にはその存在を否定されることになる。合成人間は自らの存在を維持させるためにシナリオを変更したのであるという。実はラブラブもプロペラ付きの戦闘型合成人間であり、「白書」のシナリオを本来の「オリジナル」に戻すために合成人間と戦っていたのであった。「白書」により、子糸が現在戦闘型合成人間達と戦っている所であると知った子鐘は、子糸を救いに戦いの場へと向かう。しかしその戦いは決着を迎えることはなく、戦いが今後も継続する事を暗示して、物語は静かに幕を閉じた。ストーリー全体の印象は、ドラマのTVシリーズでいう所の最初の1~2話分と最終の2~3話分を直接つなぎ合わせたような感じであった。個性的なキャラクター達とアクロバティックなストーリー展開で描かれた不思議空間は、富沢ひとしのマジックここに極まれりといった印象を読者に与えた単行本一巻分のストーリーであった。

続きは…
[PR]
by konlon | 2008-09-16 20:17 | マンガ
『エイリアン9』の魅力を伝えたい!─対策係のいる世界─
                                ●空ドラ

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
○『エイリアン9』の魅力とは?

 1998年に突如出現して読者に強烈な印象を与えた、富沢ひとし作のマンガ・『エイリアン9』は、近未来の小学校に設置された「エイリアン対策係」に所属する少女達を主役にしたストー
リーであり、「エイリアン」という異界の生物が日常の世界の中に進入している世界設定を採り入れている。そのことによって、人間自体の持つ常識観念が変革させられた、日常と非日常の入り混じった、どこか尋常ならざる世界というものが読者の関心を引き寄せ、彼らに何か言いようの無い印象を与えることとなった。『エイリアン9』(以後『A9』)ではキャラクター達の繰り広げるドラマが、異質のものが通常に見える、分かったようで分からない感覚を覚えるような世界において進行するため、読者の心には強烈な揺さぶりがかかり、不思議な感動となった。そして、その感動は、言葉では言い表すことのできない、何か凄くて素晴らしいものとなって、読者の心に残った。
 こうして、『A9』の魅力に惹かれた読者は、その魅力がどこから発せられるのかを追い求め、
『A9』の持つ”凄さ”や”素晴らしさ”を人々に伝えようとした。

○エイリアン対策係になりたい!

 マンガ作品・『A9』に秘められた、その”凄さ”や”素晴らしさ”を自分以外の人々に伝え
るための、的確な手段とは一体何か?『A9』のファン達は世界観の描写や、作画技法、現代思想の視点での解釈などから『A9』の魅力に迫ろうと試みた。『A9』の内容や構成要素を分析して、『A9』についての各自の解釈を打ち立て、それによって『A9』の”凄さ”や”素晴らしさ”を世間に伝えようとしたのである。ところが、何か物足りない印象がするのはなぜか。『A9』の持つ凄さや素晴らしさというものは、作品の内容や構成要素とは違った所にもあるらしい。それは無意識的な感覚としての、言葉では言い表せないものであり、言葉や文章で表現することが難し
い。こうした状況で、言葉や文章に代わって『A9』の魅力を伝えるべく、何人かの『A9』のファンたちは、『A9』の持つ”凄さ”や”素晴らしさ”を各自の表現に変換して、『A9』の魅力を伝えようとした。そして、ファンたちは、一つの表現手段として、彼ら独自の「エイリアン対策係」を創作したのである。それは、ファンたちが『A9』の世界に自ら入り込み、「エイリアン対策係」を彼らなりの解釈で模倣しようと試みることであった。ファンたちは『A9』の魅力を伝えるための究極の伝達手段を感覚的に考案したのであったともいえる。
 『A9』のヤングチャンピオン・コミックス版全三巻が揃った後の2000年頃から、いくつかの『A9』ファンサイト上でファン独自の「エイリアン対策係」が掲載されるようになり、それらはいつしか「ぱらきゅう」という通称で呼ばれるようになった。インターネットとホームページの普及によって、『A9』ファン達の意見発表や交流の場が提供されたことによって、ファン各自が創作した「エイリアン対策係」は、ネットワークを通じて不特定多数の人々に早く確実に発表することが容易になったのである。本家の『A9』が自由度の高い世界設定を持っている雰囲気を有していたことが、読者にエイリアン対策係の創作を可能にしたのだと思われる。『A9』の世界設定では「エイリアン対策係は第9小学校以外にも設置されている」ことになっている。つまり「本家『A9』のゆり、くみ、かすみの3人だけが対策係ではない」という設定であり、これによって、読者は作品世界へ容易に参入できるようになっているといえる。また、『A9』の主役達が、強大な超常能力をもって物語の世界を動かすというような存在ではないという点は、読者が物語世界の住人として『A9』の世界観を受け入れることが可能であると同時に、受け入れた『A9』の物語世界を自分なりに補完することを可能にしている。本家『A9』に登場するキャラターたちに対し、自分ならこうしたいというような思いを、ファンたちが創作した「エイリアン対策係」のメンバーに託すことができる余地が充分にあるのだともいえる。(共生型を含めて)エイリアンが気持ち悪いと言うような世界設定の中で見せる、『A9』のストーリーには、それを見た人に何らかの行動を起こさせるようなアクティブなパワーが秘められているのでないのかと推測されるのである。

○マンガ本来の面白さ

 私が『A9』を読んで、その異様な世界に関心を持った際、『マンガ地獄変』にて宇田川岳夫が紹介した、「トラウマ・マンガ」をはじめとする、80年代以前に発表されたマンガ作品と何か関連があるように思われた。(*1)古い時代に発表された「トラウマ・マンガ」と呼ばれるような、B級マンガ作品こそが『A9』を読み解く手掛かりになるのではないのかと私は考えた。
 これら古い時代のB級マンガを参考にして、『A9』に通じる所を探り出してみたところ、私は、『A9』における、エイリアン「ボウグ」の外見が作品のイメージを構成する要素がドリルのモチーフで統一されている点や、エイリアンが人間と”寄生”するのではなく”共生”するといった科学的に微妙なセンスを持った設定を重視している点が、60~70年代のB級マンガ作品に通じるのではないのかと考えた。マンガがまったくのB級文化だった時代に発表された作品群は、内田雄一郎(ロックミュージシャン)によるとアナーキーな、管理されていない世界であり、それらは音楽でいうところのインディーズに例えられ、(*2)作者の創造力が最大限に発揮された、言い換えれば作者の脳裏に浮かんだイメージが直接表出された作品であったという。古いB級マンガには自由奔放な面白さがあり、時には安っぽく、キッチュで、いい加減な内容を持つ場合があ
った。また、それらにはある種の毒々しさやいかがわしさを持つと同時に作品に巨大なパワーを与え、マンガ本来の面白さを形成していた。このような古いB級マンガを参考にして『A9』の内容を考えてみるに、『A9』は作者が自分自身の信じるイメージを直接的に描き出した作品であり、ゆえに巨大なパワーを持っているのではないであろうか。『A9』にはマンガ本来の面白さが込められており、読者に理屈ぬきで作品を純粋に味わう感覚を再び目覚めさせるような作品
であったといえるであろう。

○「偽史」的想像力

『A9』はマンガ本来の面白さを感じさせる作品であり、読者に何らかの行動を起こさせるアクティブなパワーを秘めていた。その自由奔放でアナーキーさを感じさせるイメージには、宇田川の言葉を借りれば、「偽史」的想像力を有しているのであろうと推測される。それは表現が受け手をも巻き込んで別世界を創造してしまうような開かれた想像力であり、それに関わる者全ての意識を変容させるほどの魅力を持っているという。宇田川によると、「偽史」とはありうべき過去や未来を捏造するために語られる物語であり、正史の狭間に入り込んで正史を相対化して、無限に増殖していく物語であるという。「偽史」は芸術の世界にも影響を及ぼし、文学等の芸術作品中に「偽史」的イメージが導入される。また、「偽史」的イメージは、支離滅裂である場合があり、受け手による補完の可能性を持っているのであるとも宇田川は主張した。(*3)
 『A9』は地球環境を一変させたらしい大異変によってエイリアンが出没した2010年代を舞台にした物語であり、そこには解き明かされることのない謎が物語中に秘められ、読者が手を加える余地のある物語設定を持っている。そのため、作品中に豊富な「偽史」的想像力を呼び起こしているといえるであろう。その「偽史」的想像力が『A9』の魅力であるとともに、ファンとなった者に「ぱらきゅう」を創作させる要因ではないのかと私は考えている。

(文中敬称略)



*1:宇田川によると、トラウマ・マンガとは、60年代から70年代にかけ
て発表されたマンガ作品の中で、作者の自己表出や妄想を具象化した作品群で
あり、読者にトラウマを引き起こさせるような作品である。徳南晴一郎の『人
間時計』に代表される貸本劇画末期頃の作品から始まって、ひばり書房刊行の
少女向けホラー作品、少年誌掲載作品上で展開された。しかし、マンガの目指
す方向は作者の自己表出よりも読者の欲望充足に変わっていき、編集・営業主
導のマンガ製作体制や表現の規制によって、80年代にはトラウマ・マンガは
姿を消したといわれている。                      
             
*2:『マンガ地獄変』植地毅、宇田川岳夫、吉田豪他著 1996年、水声

*3:『フリンジ・カルチャー』宇田川岳夫、1998年、水声社


参考文献
『マンガ地獄変』植地毅、宇田川岳夫、吉田豪他著 1996年、水声社
『マンガゾンビ』宇田川岳夫、1997年、太田出版
『フリンジ・カルチャー』宇田川岳夫、1998年、水声社
『とても変なまんが』唐沢俊一、2000年、早川書房
『まんがの逆襲』唐沢俊一編、1998年、光文社文庫

 
作品:『エイリアン9』   1巻 1999年3月 秋田書店
               2巻 1999年7月 同上
               3巻 1999年12月 同上

    『エイリアン9‐コンプリート‐』(三巻本を一冊にまとめて、
                     新ページを追加) 
                    2003年6月 秋田書店

    『エイリアン9‐エミュレイターズ‐』(『エイリアン9』の
                     続編シリーズ) 
                    2003年6月 秋田書店
            
                                  
                           

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
後記:今回は、『エイリアン9』の魅力について考察してみました。古いマンガ作品を手掛かりに『A9』を読み解いてみましたが、その中で感じたことは、昔のマンガが持っていたマンガ本来の面白さを『A9』も持っているのであろうということです。それは、TVアニメ『機動戦士ガンダム』が大ブームになった'80年代初頭に発生した「MSV」(モビルスーツバリエーション、作品に登場するロボット系メカを、ファンたちが独自に解釈して作品を楽しんでいた)を想起させるものであったと思います。また、『A9』の凄さや素晴らしさの奥にある「偽史」的想像力については、『A9』を考える上で注目されるべき事項ではないでしょうか。
 『エイリアン9』のファンサイトについては、現在「エイリアン9プラネット」('09年10月16日閉鎖)のサイトで幾つかのファンページが登録されていますので、そちらを参照してみると良いでしょう。

                     2008.8.31 空ドラ

                                  空竜総合研究所 2008 禁無断転載
      
[PR]
by konlon | 2008-08-31 23:33 | マンガ